漢書卷九十九上 王莽𫝊第六十九上 王莽
王莽、字は巨君。孝元王皇后(元后)の甥。恭倹な人柄と儒学の素養で声望を集め、大司馬を経て平帝を擁立して安漢公・宰衡となり、居摂三年に禅譲の形式を整えて皇帝を称し、国号を「新」とした。周制を模した頻繁な改制・貨幣改革・対外強硬策で内政を混乱させ、各地に反乱(赤眉・緑林など)を招き、地皇四年、長安陥落とともに漸台で殺された。前漢を簒奪した簒奪者として知られる。
出自と生い立ち
- 王莽、字は巨君。孝元皇后の弟の子である。元后の父・兄弟は元帝・成帝の世に相次いで侯に封じられ、一族で九侯・五大司馬を出した(詳細は「元后伝」)。ただし莽の父の王曼は早世して侯にならなかった。莽の従兄弟たちは将軍・五侯の子として奢侈にふけったが、莽ひとりは孤貧のなかで折節して恭倹に努め、『礼経』を学び、沛郡の陳参に師事して勤勉に博学を積み、儒生のような身なりで母と寡嫂に仕え、兄の遺児を養い、行いは厳格であった。外には英俊と交わり、内では諸父に礼を尽くした。
- 陽朔年間、伯父の大将軍 王鳳が病むと、莽は看病に付き添い自ら薬を嘗め、垢面のまま何か月も衣帯を解かなかった。鳳は死に際に太后・成帝に莽を託し、莽は黄門郎から射声校尉に進んだ。のち叔父の成都侯 王商が戸邑を分けて莽に封じたいと上書し、長楽少府 戴崇・侍中 金渉・胡騎校尉 箕閎・上谷都尉 陽並・中郎 陳湯ら当代の名士がこぞって莽を推したため、成帝は莽を賢とした。永始元年、莽は新都侯(南陽新野の都郷、千五百戸)に封ぜられ、騎都尉光禄大夫侍中に進んだ。地位が上がるほど謙譲を重んじ、財産を散じて名士を招き、将相・卿大夫と広く交わった。
- 太后の姉の子 淳于長が九卿として莽より先に昇進していたが、莽はひそかにその罪を探り、大司馬 曲陽侯 王根を通じてこれを告発し、長は誅殺された(詳細は「淳于長伝」)。根はこの功により辞職を願い出て莽を後任に推薦し、綏和元年、莽は大司馬に抜擢された。時に三十八歳、鳳・商・音・根の四人の諸父に続く五人目の大司馬であった。
成帝末・哀帝朝の雌伏
- 成帝が崩じ哀帝が即位すると、皇太后(王氏)は太皇太后と尊ばれ、太后は莽に第に帰り哀帝の外戚に道を譲るよう命じた。莽は骸骨を乞うたが、哀帝は使者を送って留任を求めた。のち哀帝の祖母 定陶傅太后が未央宮の酒宴で太皇太后の座の傍らに幄を張らせようとした際、莽は内者令を叱責して座を改めさせ、傅太后の怒りを買った。莽は再び辞職を願い、哀帝は黄金五百斤・安車駟馬を賜って帰邸させたが、なお十日ごとに食事を賜うなど寵遇を続け、黄郵聚の戸三百五十を益封し、特進給事中として三公に准じる礼で朔望の参内を許した。
- その後傅太后・丁姫がともに尊号を称すると、丞相 朱博は莽がかつてこれに反対したことを弾劾し、免じて庶人とすべしと奏したが、哀帝は太皇太后との縁を理由に免職とせず封国へ帰らせた。莽は国で門を閉ざして謹慎し、次男の王獲が奴を殺した際には切責して自殺させた。三年の在国中、莽の無実を訴える吏民の上書は百を数えた。元寿元年、日食を機に賢良 周護・宋崇らが対策で莽の功徳を訴え、哀帝は莽を召還した。
- 莽が新都に赴いたとき、南陽太守は莽の貴顕を重んじ、門下掾の宛の孔休を新都の相とした。休が謁見すると莽は礼を尽くし、のち莽が病んだ際に見舞いに来た休へ玉具の宝剣を贈ろうとしたが、休は受けなかった。莽は「あなたの顔の傷痕には美玉が良いので、玉飾りだけを贈りたい」と言って自ら玉飾りを砕き、包んで贈った。休はこれを受けたが、莽が召還される際には病と称して会わなかった。
- 莽が京師に戻って一年余り、哀帝が嗣子なく崩じ、傅太后・丁太后もすでに没していた。太皇太后は即日未央宮に赴いて璽綬を収め、莽を召還した。莽は大司馬 高安侯 董賢を年少で衆心に合わぬとして印綬を収め、賢は即日自殺した。太后が公卿に大司馬を推挙させると、大司徒 孔光・大司空 彭宣は莽を推し、前将軍 何武・後将軍 公孫禄は互いを推したため、太后は莽を大司馬に任じ、後嗣の議に与らせた。
平帝の擁立と大司馬再任
- 莽の従弟で太后の信任篤い安陽侯 王舜が車騎将軍として中山王を迎え、成帝の後継である孝平皇帝(時に九歳)を立てた。太后が臨朝称制し政を莽に委ねると、莽は皇子を害した趙氏、驕僭の傅氏を糾弾し、孝成趙皇后・孝哀傅皇后をともに自殺させた(詳細は「外戚伝」)。莽は名儒の大司徒 孔光を尊び、その女婿 甄邯を侍中奉車都尉に引き立て、哀帝の外戚・大臣で反対する者を次々に罪に落とし、前将軍 何武・後将軍 公孫禄は互いに推挙し合った罪で免ぜられ、丁氏・傅氏・董賢の親族は官爵を奪われ遠方に徙された。太后の弟 紅陽侯 王立は要職になくとも諸父として憚られたため、莽は孔光に旧悪(淳于長への関与)を再び奏させ封国へ遣った。
- 王舜・王邑を腹心とし、甄豊・甄邯に糾弾の実務を、平晏に機務を、劉歆に文章を、孫建に武を、豊の子 尋・歆の子 棻、涿郡の崔発、南陽の陳崇らを近侍とした。莽は表向き厳粛にふるまい、意中を側近が汲んで奏上させては自らは涕泣して固辞するという手法で、太后を信服させ世間の信を得た。
- 益州に命じて塞外の蛮夷に白雉を献じさせ、元始元年正月、莽はこれを宗廟に薦めるよう奏した。群臣は太后に、莽の功は霍光の安宗廟の功に比すべしとして三万戸の益封を奏したが、太后が真意を問うと、群臣は「安漢公」の号を勧めた。莽は上書して自らを除き孔光・王舜・甄豊・甄邯のみを賞するよう願ったが、太后は詔して莽の功も並べ賞すべしとした。莽はなお固辞したが、最終的に太師 孔光・太保 王舜・少傅 甄豊・大司馬 甄邯の四輔を定め賞を加えたうえで、群臣の重ねての請いにより莽は「安漢公」の号と太傅の位を受けた。旧蕭何邸を安漢公第とし、莽は益封・爵邑を辞退して「百姓が家給してから」と述べ、太后は公の俸禄・舎人の賞賜を倍にすることで応じた。
- 莽はさらに諸侯王の後嗣・高祖以来の功臣子孫の封爵を建言し、太后が政務に倦むのに乗じて「今後は封爵のみを奏聞し、他の政務は安漢公と四輔が決す」との詔を引き出した。莽は虚名を求めて太后に節倹を勧め、自ら銭百万・田三十頃を貧民救済に献じ、公卿もこれに倣った。のち群臣が節倹をやめるよう請うと莽はそれを許し、水旱のたびに素食する演技を続けた。
- 匈奴単于には金幣を厚く贈って二名を避けさせ(嚢知牙斯を知と改名させ)、単于の使者や王昭君の娘 須卜居次を入朝させるなど四夷への懐柔も進めた。莽は権力を固めるため娘を平帝の皇后に立てようとし、五経の礼制を考証して娶礼を正すべしと奏した。選に上がった女性の多くが王氏であったため、莽は自分の娘が争いを避けるべく身を引く姿勢を見せたが、太后が他の王氏女を退けたことで、庶民・諸生・郎吏の上書が殺到し、公卿も莽の娘を皇后にと迫った。莽は再三辞退の姿勢を示しつつ最終的に娘を差し出し、卜筮はみな吉と出た。信郷侯 王佟の上言により安漢公の国を古制どおり百里に及ぶよう新野の田二万五千六百頃が益封されたが、莽はこれも辞退した。皇后聘礼の黄金二万斤(銭二万万)も大半を辞退し、十一媵家や九族の貧者に分け与えた。
陳崇の上奏と安漢公への礼遇
- 大司徒司直 陳崇は、張竦に起草させた長大な上奏文で莽の功徳を頌えた。莽が若くして節を折り礼を修めたこと、淳于長を誅したこと、董宏を劾して定陶太后の僭坐を退けたこと、董賢を退けて危機を収めたこと、周公・召公・伊尹・晏嬰・蕭何・霍光・衛青らの故事と比較してなお莽の功に対する恩賞が薄いことなどを論じ、周公に倣って莽の国を広げ、その子にも周公の六子の故事に准じて封爵を与えるべきだと説いた。太后はこれを群公に示したが、議論の最中に呂寛の獄が起こった。
王宇の獄と衛氏・呂寛一族の粛清
- 莽は帝の母方の衛氏を遠ざけ、帝母 衛姫を中山孝王后とし、その弟の衛宝・衛玄を関内侯として中山にとどめ、京師に入れなかった。莽の長子 王宇はこれに反対し、密かに衛宝らと通じて帝母に上書させようとしたが莽は聴かなかった。宇は師の呉章、妻の兄 呂寛と謀り、章の勧めで莽を怪異で驚かせ政を衛氏に返させようとし、宇は寛に夜莽の邸門に血を灑がせたが発覚した。莽は宇を獄に下して自殺させ、宇の妻(懐妊中)は出産後に処刑された。莽は「宇は管蔡と同罪だが誅を隠さない」と奏し、太后は詔してこれを嘉した。
- 莽はこれに乗じて衛氏を誅滅し、呂寛の獄を拡大して政敵の郡国豪桀を粛清し、元帝の女弟 敬武公主、梁王 劉立、紅陽侯 王立、平阿侯 王仁らを自殺に追い込み、死者は百を数え海内は震撼した。大司馬護軍 甄褒の奏により、宇が獄中で著した子孫を戒める書八篇を郡国の学官に頒布させ、これを誦じる吏を選挙の基準に加えた。
皇后冊立と安漢公・宰衡への進号
- 元始四年春、高祖を郊祀して天に配し、孝文帝を宗祀して上帝に配した。四月丁未、莽の娘が皇后に立てられ、天下に大赦した。大司徒司直 陳崇ら八人を分遣して天下の風俗を視察させた。太保 王舜らの奏と八千余人の上書により、莽を伊尹・周公になぞらえ「宰衡」の号と上公の位を加えることが決まり、莽の母には「功顕君」の号と食邑二千戸・黄金印赤韍が与えられ、子の王安は襃新侯、王臨は賞都侯に封じられ、皇后への聘礼も一万万に達した。太后は前殿でみずから安漢公を封拝し、二子を後で拝した。莽は辞譲を重ねたが、太師 孔光ら群臣は「謙譲は公の常だが賞は功に及ばぬ」として聴かなかった。
- 莽はついに起って任に就き、自らの歴官(元寿二年に新都侯として召され大司馬、元始元年に太傅・安漢公、この年に宰衡)を述べ、宰衡には印信がなく名実が伴わないとして御史に「宰衡太傅大司馬」の印を刻ませ、太傅・大司馬の印を返上した。太后は許し、韍は相国に准じるものとした。莽は益された聘礼銭千万をまた長楽宮の侍者に分け与えた。太保 王舜の奏により、莽が財を辞し民を化した徳が天下に知れ渡ったことが太后に報告された。宰衡の出入りには大車前後各十乗、直事の尚書郎・侍御史・謁者・中黄門・期門・羽林が従い、掾史の秩は六百石、三公と同じく「敢言之」と称するに至った。
明堂・辟雍の造営と九錫
- この年、莽は明堂・辟雍・霊台の造営、学舎万区・常満倉の建設を奏し、楽経を立てて博士を増員、逸礼・古文毛詩・周官・爾雅・天文図讖・鍾律・月令・兵法・史籀篇に通じる者を天下から公車に召し、千を数える異能の士を集めて経義の統一を図った。群臣は周公が七年で制度を定めた故事を引き、莽がわずか四年で明堂・辟雍を成したことを称え、宰衡の位を諸侯王の上に置き、束帛・璧・大国の乗車安車・驪馬二駟を賜うべきと奏し、九錫の議が始まった。
- 冬、大風で長安城東門の屋瓦がほぼ吹き飛んだ。元始五年正月、明堂で祫祭を行い、諸侯王二十八人・列侯百二十人・宗室子九百余人が助祭に召され、孝宣帝の曽孫 劉信ら三十六人が列侯に封ぜられた。莽が新野の田を受けなかったことを理由に加賞を求める上書は前後四十八万七千五百七十二人に及んだ。
- 五月庚寅、太皇太后は前殿で公卿大夫・博士・議郎・列侯(張純ら九百二人)の議に基づき、莽に九命の錫(車馬・衣服・楽懸・朱戸納陛・武賁鈇鉞・弓矢・秬鬯)を授ける策を下した。策文は莽の功績――淳于長の誅、大司馬職での輔政、董宏の劾奏、董賢の排除、平帝擁立と摂政、宇の誅殺による綱紀粛正などを長々と称え、緑韍衮冕衣裳・瑒琫瑒珌・句履・鸞路乗馬・龍旂九旒・皮弁素積・戎路乗馬・彤弓矢盧弓矢・朱鉞金戚・甲冑一具・秬鬯二卣・圭瓚二・九命青玉珪二・朱戸納陛などを授け、宗官・祝官・卜官・史官・虎賁三百人・家令丞を置き、楚王の旧邸を安漢公第として整備し、祖禰廟にも朱戸納陛を施した。
- その秋、莽は皇后に子孫の瑞ありとして杜陵から南山を越え漢中に至る子午道を通させた。風俗使者八人は天下の風俗が斉一になったと報告し(実際は諂いの歌謡を偽作したもの)、莽は市に二価なく獄訟なく盗賊なきを装う法令を定め、犯した者には象刑を科すとした。北の匈奴、東の海外、南の黄支まで懐柔した莽は、西方にも中郎将 平憲らを遣って塞外の羌を誘い、羌の豪 良願らが献地・内属を申し出た。莽はこれを西海郡とし、経義に基づき天下を十二州に定め直したが、法を五十条増やして犯者を西海に徙したため、徙される者は千万を数え民は怨み始めた。
居摂への道
- 泉陵侯 劉慶は周成王・周公居摂の故事を引き、安漢公に天子の事を行わせるべしと上書し、群臣も賛同した。冬、熒惑が月に入る異変があり、平帝が病むと莽は泰畤に身代わりを願う策を作り金縢に蔵した。十二月、平帝が崩じ、莽は宣帝の玄孫のうち最も幼い広戚侯の子 劉嬰(二歳)を選び、卜相が最も吉であったとして後継とした。
- 前煇光 謝囂は武功の長 孟通が井戸から得た白石に「安漢公莽を皇帝と告ぐ」の丹書があったと奏した。符命の起こりはここに始まる。太后は「これは天下を欺くもの」として許さなかったが、太保 王舜は「事すでにここに至り、莽の真意は権を重んじ天下を鎮めるためだけ」と説き、太后はやむなく聴許した。太后は詔して、宣帝の元孫二十三人から後継を選ぶこと、玄孫は幼く安漢公が輔政三世に及び周公と符を同じくすること、丹石の符に深く思うところあり、安漢公に周公の故事に倣い居摂践阼させること、武功県を安漢公の采地とし漢光邑と名づけることを命じた。
- 群臣は周公居摂の典故(『尚書』康誥・逸嘉禾篇等)を引いて、安漢公が天子の韍冕を着け、戸牖の間で背に斧依を負い南面して群臣に朝し、政事を聴き、車服の出入に警蹕し、民臣が臣妾と称し、郊祀・宗祀・宗廟の祭を行い、賛には「仮皇帝」と称し、民臣は「摂皇帝」と呼び、自称は「予」とし、皇帝の詔を制と称して奉じ、太皇太后・帝・皇后への朝見には臣節を復すべしと奏し、太后はこれを許した。翌年、居摂元年と改元された。
- 居摂元年正月、莽は南郊で上帝を祀り、東郊で春を迎え、明堂で大射礼を行い、三老五更を養った。柱下五史を置いて言行を記録させた。三月己丑、宣帝の元孫 嬰を皇太子に立てて孺子と号し、王舜を太傅左輔、甄豊を太阿右拂、甄邯を太保とした。
- 四月、安衆侯 劉崇が相 張紹と謀り「莽の専制は必ず劉氏を危うくする」として宗族百余人と挙兵し宛を攻めたが敗れた。紹の従兄 張竦は崇の族父 劉嘉とともに帰順し、竦が嘉に代わって莽の功徳を頌え劉崇を貶める上奏を作ったところ、莽は大いに喜び劉嘉を師礼侯に、竦を淑徳侯に封じた。長安では「封を求めるなら張伯松(竦)に及ばず、武で戦うより奏を巧みにする方がよい」と評された。
- 五月甲辰、太后は莽が朝見の際「仮皇帝」と称すよう詔した。冬十月丙辰朔、日食があった。十二月、群臣の奏により安漢公の宮・家吏が増員され、廬は摂省、府は摂殿、第は摂宮と改称された。太師 孔光の遺功、太保 舜・大司空 豊・軽車将軍 甄邯・歩兵将軍 孫建の功に対しそれぞれ子に封が加えられた。
- この年、西羌の龐恬・傅幡らが西海郡設置による奪地を怨んで反乱し、西海太守 程永を攻めたが、莽は永を誅して護羌校尉 竇況に討たせた。
- 居摂二年、竇況らが西羌を破った。五月、貨幣として錯刀(一直五千)・契刀(一直五百)・大銭(一直五十)を五銖銭と並行させ、盗鋳を禁じた。
- 九月、東郡太守 翟義が車騎を閲兵する名目で兵を発し、厳郷侯 劉信(東平煬王の子)を天子に立て、莽が平帝を毒殺し天子位を奪ったと檄を飛ばし、衆十余万に及んだ。莽は恐懼して孺子を抱いて郊廟に祷り、桓譚ら諫大夫を遣って摂位は孺子への返政を前提とすると諭し、王邑・孫建ら八将軍に討たせた。同時に槐里の趙明・霍鴻らも挙兵して翟義に呼応し、長安を突こうとしたが、莽は王竒・王級を遣り、太保 甄邯を大将軍として高廟で鉞を受けさせ、王舜・甄豊が昼夜殿中を巡らせた。十二月、王邑らは翟義を圉で破った。
- 居摂三年春、地震があり大赦した。王邑らは京師に戻り、王級らと合流して趙明・霍鴻も滅ぼした(詳細は「翟義伝」)。莽は白虎殿で将帥を労い、陳崇に論功させ、周制に倣って爵五等・地四等の制で数百人を封じ、関内侯に当たる者は「附城」と改称した。西羌討伐者は「羌」、槐里の乱鎮圧者は「武」、翟義討伐者は「虜」を号とした。
- 群臣は摂皇帝の二子の爵を公に進め、成王が周公の庶子六人に茅土を与えた故事、蕭何・霍光の子孫への恩恵にも及ぶべきと奏し、太后は王安を新挙公、王臨を襃新公とし、甥の王光を衍功侯に封じた。莽の孫 王宗も新都侯に封ぜられた。莽は翟義を滅ぼし威徳が日に盛んになったとして、即真(皇帝への即位)を謀り始めた。
- 九月、莽の母 功顕君が死んだが莽は哀しむ様子を見せず、喪の礼を議させた。少阿羲和 劉歆ら博士七十八人は、摂皇帝は尊者と一体であり私親の喪に服すべきでないとしつつ、周礼の緦縗弁に麻環絰を加えた礼を天子が諸侯を弔う礼に準じて行うべしとし、莽はこれに従い一弔一会で済ませ、孫の新都侯 王宗を喪主として三年の喪に服させた。
- 司威 陳崇は、衍功侯 王光が執金吾 竇況に殺人を依頼した罪を奏し、莽は光を切責した。光の母は「お前は死んだ長孫・中孫(宇・獲)とどちらが増しか」と言い、母子ともに自殺、竇況も死んだ。莽はかつて母への孝と兄子への慈愛で名を得たが、悖虐の後にはそれを公義の名分に利用した。光の子 嘉が爵を嗣いだ。
- 莽は「哀悼の礼は季冬に終わる」として、正月の郊祀の八音・楽制について儒生に意見を出させた。この年、広饒侯 劉京・車騎将軍千人 扈雲・大保属 臧鴻がそれぞれ斉郡の新井、巴郡の石牛、扶風雍の石の符命を奏し、莽はみな迎え受けた。
符命の連続と居摂践阼
- 十一月甲子、莽は太后に上奏し、漢の十二世・三七の厄運のもとで自らが居摂を託されたこと、広饒侯 劉京の上書(斉郡臨淄県昌興亭長 辛当が天公の使者の夢を見、亭に新井が現れたという)、巴郡の石牛・雍の石文、太保 王舜らとともに未央宮前殿で銅符帛図を得たこと(「天告帝符、献者封侯」の文)、哀帝建平二年の甘忠可・夏賀良の讖書に見える「元将元年」の語が居摂改元を指すこと、『尚書』康誥・『春秋』隠公の記事が周公・孔子の定めた居摂の先例であることを述べ、太皇太后・孝平皇后を「仮皇帝」と称させ、政務では「摂」の語を用いず、居摂三年を初始元年と改め、漏刻を百二十度とすることなどを奏し、可とされた。世は莽が即真に向かっていることを察した。
- 期門郎 張充ら六人が莽を劫して楚王を立てようと謀ったが発覚し誅殺された。梓潼の哀章は素行の悪い学問好きで、莽の居摂に乗じ銅匱を作り「天帝行璽金匱図」「赤帝行璽某伝予黄帝金策書」(某は高皇帝の名)と署し、莽が真の天子であること、莽の大臣八人に加え自ら王興・王盛・哀章の名を書き加えた符命文を作った。斉の井戸・石牛の符命が奏上された当日、哀章は黄衣を着てこの匱を高廟に持ち込み、僕射を通じて莽に奏上された。戊辰、莽は高廟で金匱を拝受し「神嬗」を称して王冠を着け、未央宮前殿に還り、自らを黄帝・虞帝の末裔と称し、天命により天下を継ぐとする詔を下した。国号を「新」とし、正朔・服色・犠牲・徽幟・器制をことごとく改め、十二月朔癸酉を建国元年正月朔とし、鶏鳴を時とし、服色は黄を尊び、犠牲は白を用い、使者の旄旛は純黄とし「新使五威節」と称して皇天上帝の威命を承ける形とした。