酔いながら事を成した「酒豪の俠客」
- 陳遵、字は孟公。杜陵の人。祖父の遂、字は長子、宣帝が微賤であった頃から交わりがあり、しばしば博奕(六博・囲碁)で負けを重ねた。宣帝即位後、遂は用いられ次第に太原太守に至り、璽書を賜り「太原太守は官尊く禄厚い、博打の借りを返せるだろう」との詔があった(詔書中に妻君寧が博打の負けの事情を知っていたことにも触れる、旧恩の深さを示すため)。遂は謝辞しつつ「あれは元平元年の恩赦以前のことです」と述べ、それほど厚遇されていた。元帝の時、遂は京兆尹に徴され廷尉に至った。
- 遵は若くして父を失い、張竦(字伯松)と共に京兆の史となった。竦は博学で通逹、廉倹を自ら守ったが、遵は放縦で操行に拘らず、性格は異なりながら互いに親友であった。哀帝末、共に名を知られ後進の第一と目され、共に公府に入ったが、公府の掾史はみな粗末な車馬を用いたのに対し、遵だけは車馬・衣服の贅を極め、門外には車馬が絶えず、日々酔って帰り曹事はしばしば滞った。西曹はこれを理由に処分を科し、当番の吏が寺舎に赴き「陳卿は今日某事で処分」と告げるたび、遵は「百に達したら報告してくれ」と応じた(過去の慣例では処分が百に達すると罷免となる)。西曹が罷免を上申しようとしたが、大儒で士を優遇する大司徒馬宮も遵を重んじ、西曹に「この人物は大度の士、なぜ小さな過失で責めるのか」と述べ、遵は三輔の劇務県を治める能ありとして推挙され郁夷令に補された。長らくして扶風と折り合いが悪くなり自ら辞職。槐里の大賊趙朋・霍鴻らが起こると遵は校尉として朋・鴻を討ち功を立て嘉威侯に封じられ長安に住み、列侯・近臣・貴戚はみな彼を重んじた。地方に赴任する牧守や京師に上る郡国の豪傑は必ず遵の門に立ち寄った。遵は酒を好み、大酒宴のたびに賓客が堂に満ち、門を閉ざし客の車の轄(車輪の留め具)を抜いて井戸に投げ入れ、急用があっても帰さなかった。ある時、部の刺史が事を奏上する途中、遵の元で大酒宴に出くわし、急な用事にもかかわらず酔い潰れながら遵の母に叩頭して「尚書との約束がある」と訴え、母は裏口から出してやった。遵は常に酔っていたが仕事も滞らせなかった。身長八尺余、頭が大きく鼻も大きく容貌堂々、書物にも通じ文辞に長け、書をよくし、人への尺牘(手紙)は受け取った者がみな大切に保管し誇りとした。人からの頼み事は断らず、遵が訪れる先の官人はみな彼を厚遇しようと競った。ある時、遵と同姓同名の列侯がいて、人の門を訪ねるたび「陳孟公」と名乗ると座がみな震動したが、実は別人と分かると人々はその人物を「陳驚坐」と呼んだという。王莽も日頃から遵の才を評価し多くの者が推薦したため、河南太守に起用された。着任後、従史を西に遣り書のうまい吏十人を集めて私信を代筆させ京師の故人に挨拶を送ろうとし、遵は几に凭れて口述し、吏に「役所の事は後にせよ」と言って数百通もの手紙を書かせ、それぞれ親疎に応じた文面にした。河南は大いに驚いたが数か月で免官となった。
- 遵が河南太守であった頃、弟の級も荊州牧に任じられ、共に赴任の途中、長安の富人でもと淮陽王の外家であった左氏の邸で酒食歌舞を楽しんだ。後に司直陳崇がこれを聞き、「遵兄弟は幸いにも恩を蒙り列侯・郡守・州牧に取り立てられながら、公正な政を宣揚すべき身でまず自ら身を慎むべきなのに」と弾劾を上奏した。遵は着任の初め、藩車(覆いのある車)で閭巷に入り、寡婦左阿君の家に立ち寄り酒宴と歌舞を楽しみ、自ら舞い跳ね転げ倒れ、そのまま宿泊し侍婢に介抱させたという。遵は酒を節度をもって飲むべきなのに、礼として寡婦の門に入るべきでなく、酒に沈み肴に溺れ男女の別を乱し、爵位を辱め印綬を汚した、悪は聞くに堪えず、免官すべきと弾劾された。
- 遵は免官後も長安に戻ると賓客はますます盛んで、飲食三昧も相変わらずであった。長らくして再び九江・河内の都尉となり、都合三たび二千石に至った。張竦もまた丹陽太守に至り淑徳侯に封じられたが、後に共に免官となり列侯として長安に戻った。竦は貧しく暮らし賓客もなく、時に好事家が訪れては経書の議論をするのみであったが、遵は昼夜歓声が絶えず車騎が門に満ち酒肉が絶えなかった。先に黄門郎揚雄が「酒箴」を作り成帝を諷諫したことがあり、その文は酒客が法度の士を論難する体裁で、瓶に喩えて「瓶は井戸の縁に居り、高きに処し深きに臨み、常に危うきに近い。酒醪を口にせず水を懐に満たし、左右の自由もなく縄に牽かれ、ある日縄が絡まり瓦甃にぶつかって砕け散り、身は黄泉に投じられ骨肉は泥となる、これでは鴟夷(革袋)にも及ばない。鴟夷は円転自在で腹は大壺のよう、一日中酒を盛られては人にまた酌み交わされ、常に国器として天子の属車に託され両宮を出入りし公家に用いられる、これで言えば酒に何の過ちがあろうか」と説くものであった。遵はこれを大いに気に入り、常に張竦に「私と君は似たようなもの、君は経書を諷誦し身を苦しめ自らを束ね、決して足を踏み外さない。私は思うままに放縦し俗間に浮沈するが、官爵功名は君に劣らず、しかもこちらの方が楽しくないだろうか」と語った。竦は「人にはそれぞれの性がある、長短は自ら裁くもの、君が私になろうとしてもできまい、私が君を真似ればしくじるだろう。とはいえ私に倣う方が容易く、君に倣う方が難しい、それがわが常道だ」と答えた。王莽の敗亡に際し、二人は共に池陽に客居したが、竦は賊兵に殺された(李奇によれば、竦は賊のいることを知りながら忌日を理由に去らず殺された、桓譚はこれを「通人の弊」と評したという)。更始帝が長安に至ると、大臣は遵を大司馬護軍に推挙し、遵は帰徳侯劉颯と共に匈奴への使者となった。単于が遵を脅し屈服させようとしたが、遵は利害を説き曲直を弁じ、単于は大いにその器量を認めた。折しも更始が敗れ、遵は朔方に留まり賊に敗れ、酔った状態で殺された。