漢書卷九十二 游俠傳第六十二 樓護

五侯の間を渡り歩いた「筆と舌の人」

  • 樓護、字は君卿。斉の人。父は代々医者。護は若い頃から父に従い医として長安の貴戚の家に出入りし、医経・本草・方術数十万言を暗誦し、年長者たちに愛重され「君卿の才で、なぜ官に就き学ばないのか」と勧められ、これにより父の業を辞し経伝を学び、京兆吏として数年で名声を得た。当時、王氏(外戚)が全盛で賓客が門に満ち、五侯兄弟がそれぞれ名声を競い、その客はそれぞれ特定の陣営に属し行き来しなかったが、護だけはすべての門に出入りしそれぞれの歓心を得、士大夫と結び傾け尽くさぬ相手はなく、年長者にはとりわけ親しまれ敬われた。人となりは小柄で弁論に長け、常に名節を根拠に論じ、聞く者は皆襟を正した。谷永と共に五侯の上客として長安で「谷子雲の筆札、樓君卿の唇舌」と称され、その信用ぶりを表した。母の死に際して会葬の車は二、三千台に及び、里の歌に「五侯の喪を治むるは樓君卿」と詠まれた。
  • 長らくして平阿侯が護を方正に推挙し(王譚)、諫大夫として郡国の貸付事業を監督する使いに出た際、多くの幣帛を携え斉を通り、上書して先祖の墓に詣でることを願い、族人・故人と会するたび親疎に応じて束帛を分け与え、一日で百金を散じた。復命の上奏が上意に適い、天水太守に抜擢されたが数年で免官、長安に住んだ。時に成都侯商が大司馬衛将軍として朝を退いた際、護の家を訪ねようとしたところ主簿が「将軍のご身分で閭巷に立ち入るべきでない」と諫めたが商は聞かず訪ねた。護の家は狭く官属は車の下に立ったまま長時間待たされ、雨が降りそうになり、主簿が西曹の掾らに「強く諫めなかったから雨の中で門前に立たされる羽目になった」とこぼしたところ、商が帰った後、誰かがこれを主簿の言葉として商に告げ口し、商は恨んで別の職務を理由に主簿を退け、主簿は生涯不遇となった。後、護は再び推挙され広漢太守となった。
  • 元始年間、王莽が安漢公として専政する中、莽の長子宇が妻の兄呂寛と謀り莽邸の門に血を塗って莽を脅し政権を返させようとしたが発覚、莽は激怒し宇を殺し、呂寛は逃亡した。寛の父は元来護と親しく、寛は逃亡中に広漢に立ち寄り護のもとで実情を語らなかったが、数日後に名指しの捕縛令が届くと、護は寛を捕らえた。莽は大いに喜び護を召して前煇光(莽が三輔を分割し設けた前煇光・後丞烈の一)とし息郷侯に封じ九卿に列した。莽の摂政期、槐里で大賊趙朋・霍鴻らが群起し前煇光の管轄に及んだため、護は罪に問われ庶人とされた。それまでの官爵禄・贈答で得た財も手放し、閭里に隠棲した。時に五侯はすでに没し年老いて勢いを失い、賓客もますます衰えていたが、王莽の簒位後、旧恩により護は召し出され楼舊里附城(莽が定めた古の附庸に倣った爵位)に封じられた。成都侯商の子邑が大司空として貴重な地位にあり、商の旧知の者は皆邑に敬事したが、護だけは以前と変わらぬ態度を貫き、邑もまた護を父のごとく敬い欠礼しなかった。ある宴で邑は樽の下に控え「賤子」と称して寿を捧げ、座した百余人がみな席を立ち平伏する中、護だけは東向きに端座したまま「公子(邑の字)、貴きこと如何」と語りかけた。
  • かつて護には呂公という故人がおり子がなく護を頼ってきたため、護は自ら呂公夫妻と食を共にした。護が官を退いた頃、妻子が呂公を疎んじたが、護はこれを聞いて涙を流し妻子を責め「呂公は旧知の身、老いて窮した末に私を頼ったのだ、義として当然に奉養すべき」と言い、呂公を終身養った。護の死後、子がその爵位を嗣いだ。