冢舎の贅を尽くした「谷口の魁」
- 原渉、字は巨先。祖父武は武帝の時、豪傑として陽翟から茂陵に移された。渉の父は哀帝の時、南陽太守となった。天下が殷富な時代、大郡の二千石は死ねば賦斂や葬送の費が千万を超え、妻子が受け取り産業の基とするのが常であったが、当時は三年の喪に服す者が少なかった中、渉の父の死に際し渉は南陽からの贈り物を辞退し、墓廬で三年の喪に服した。これにより京師で名を知られ、喪が明けると扶風は渉を議曹に招請、士人たちはこれを慕って集まり、大司徒史丹(劉攽の指摘によれば「史丹」は衍字で実際は大司徒史に過ぎない)の推挙により劇務の谷口県令に補された。時に二十余歳、谷口はその名を聞いただけで語らずして治まったという。
- これより先、渉の叔父が茂陵の秦氏に殺されており、渉は谷口に赴任して半年ほどで自ら官を辞し復讐しようとし、谷口の豪傑が秦氏を殺し逃亡、渉も一年余り亡命したが恩赦にあった。郡国の豪傑や長安・五陵の気節を重んじる者たちはみな渉を慕い帰した。渉は身を投げ出して彼らと交わり、賢愚を問わず門は人で溢れ、その里の酒は飲み尽くされるほどであった。ある人が渉を「あなたは元来二千石の家柄、結髪より身を修め喪に服し財を譲り礼を重んじて名を得た、たとえ復讐を果たしても仁義を失わなかったはずなのに、なぜ放縦な軽俠の徒になったのか」と譏ったところ、渉は「あなたは寡婦を見たことがないか。初め身を慎んでいた頃は宋の伯姫や陳の孝婦を慕う心があった(伯姫は火事の際、傅母が揃わぬまま堂を下りることを拒み焼死した貞節の故事、孝婦は舅姑を篤く養い節を守った故事)が、不幸にも一度でも盗賊に汚されれば、そのまま淫佚に走り、非礼と知りながら元に戻れなくなる、私もそれと同じだ」と答えた。
- 渉は、かつて南陽からの贈り物を辞退したことで名声は得たが、先祖の墓が質素なままなのは不孝であると考え、大々的に冢舎を造営し周閤・重門を構えた。かつて武帝の時、京兆尹曹氏が茂陵に葬られた際、その道を「京兆仟」と呼んだ故事に倣い、渉は土地を買い道を開き標識を立て「南陽仟」と署したが、人々はこれに従わず「原氏仟」と呼んだ。費用はすべて富人・長者から取り立てたが、渉自身の衣服・車馬はわずかで妻子の暮らしは困窮するほど、専ら貧窮者への施しと人の急を助けることに努めた。ある時、人が渉を招いて酒宴を開いたが、渉は里門を入ったところで、客から「渉の知人の母が病んで里の家に避けている」と聞き、すぐに見舞いに赴き門を叩くと家では既に哭礼が始まっており、渉は弔問に入り葬儀に何もないことを知ると「ただ掃除して沐浴し待っていてくれ、渉が戻る」と言い、招いた主人の元に戻って賓客に「人の親が地に横たわり収められていないのに、渉にどうしてこの酒宴を楽しむ心があろうか、酒食を下げてほしい」と嘆息した。賓客が争って何をすべきか問うと、渉は憂いある者の作法である側席(座を傾けて座る礼)に座り木簡を削って疏(記録)を作り、衣・被・棺木から飯含(死者の口に含ませる米・玉)に至るまで細かく手配し、諸客に分担させた。客たちは市に走り買い物をし、日が傾く頃には全て揃い、渉は自ら検分して「もう十分だ」と言い、共に食事をしたが渉だけは満腹にならず、棺や葬具を積んで喪家に運び、棺を納め弔問を済ませ埋葬まで見届けた。その人への施しと世話ぶりはこれほどであった。
- 後にある人が渉を「姦人の雄」と誹謗したところ、喪家の子がその場で誹謗した者を刺殺した。渉の賓客は法を犯すことが多く、罪状がたびたび上聞し、王莽はしばしば渉を捕らえ処刑しようとしたが、そのたびに赦して放免した。渉は恐れて卿府の掾史となり賓客を避けようとした。文母太后(元后)の喪の際、渉は復土校尉として陵の造営に携わり中郎となったが、後に免官された。渉が墓参りに行こうとした際、賓客を集めず密かに故人とだけ約束し単車で自ら茂陵まで馬を走らせ、日暮れに実家に入り身を隠して人に会わなかった。奴を市に肉を買いに遣わせたところ、奴は渉の威勢を頼んで肉屋と言い争い斬りつけ、肉屋は逃げた。折しも茂陵の代理県令尹公が新任で、渉はまだ挨拶に赴いていなかったが、これを聞き大いに怒り、渉の名声を知りつつ「衆に示し風俗を正すため」両吏を遣り威圧、渉を日中まで拘束し奴が出頭しなければ渉を処刑しようとした。渉は窮したが、折しも渉と墓参りを約束していた者たちの車数十台が到着し、みな豪傑たちであった。彼らは共に尹公を説得したが聞き入れられず、諸豪は「原巨先の奴が法を犯したのなら、渉自身が肉袒し縄を打ち矢を耳に貫いて廷門に赴き君に謝罪すれば、威も十分立つでしょう」と申し出、尹公はこれを許した。渉は言われた通りに謝罪し、また衣服を整えて放免された。
- かつて渉は新豊の富人祁太伯と友であったが、太伯の同母弟王游公は日頃から渉を嫉んでおり、県の門下掾であった折、尹公に「あなたは代理県令の身で原渉をこのように辱めたが、いずれ真の令が来れば、あなたはまた単なる府吏に戻る。渉の刺客は雲のように多く、人を殺しても誰の仕業かも分からず、実に肝を冷やす思いです。渉は冢舎の造営で奢僭が制を越えており、その罪悪は明白で主上もご存知のはず。今のうちに、あなたが渉の冢舎を破壊しその旧悪を条奏すれば、必ず真の令に任じられるでしょう、そうすれば渉もあなたを怨むことはできますまい」と勧めた。尹公はこの策に従い、莽は果たして尹公を真の令に任じた。渉はこれにより王游公を怨み、賓客を選び長子初を遣り従車二十台で王游公の家を襲わせた。游公の母は祁太伯の母でもあったため、客たちは彼女を見て「祁夫人を驚かせるな」と拝礼しつつ、游公とその父・子を殺しその首を斬って去った(游公とその父を殺したことを指す)。
- 渉の性格は郭解に似て、外は温仁謙遜だが内には陰の激しさを秘め、些細な怨みで人を殺すことを好み、塵に埋もれるように死んだ者が甚だ多かった。王莽末、東方で兵が起こると、諸王子弟の多くが「渉は死士を集め用いることができる」と推挙し、莽は渉を召見し過去の罪悪を責めながらも赦し、鎮戎大尹・天水太守に任じた。渉が着任していくらも経たぬうちに長安が陥落した。郡県の各地で反乱勢力が二千石長吏を殺して漢に呼応する中、これら諸勢力は渉の名を聞いており争って「原尹はどこか」と尋ね拝謁したため、莽の州牧・使者で渉を頼った者は皆生き延び、渉のもとに送られて長安に至った。更始の西屏将軍申徒建は渉に会見を求め大いに重んじた。かつて渉の冢舎を破壊した茂陵の元令尹公は建の主簿となっていたが、渉はもとより怨んでいなかった。渉が建の元から退出する際、尹公は先回りして渉を拝し「世が変わりました、もう互いに怨むのはやめましょう」と言ったが、渉は「尹君はなぜいつも私を魚肉のように扱うのか」と答え(人として扱われなかったことを恨む意)、怒って客に尹公の主簿を刺殺させ、渉自身は逃げようとした。申徒建は内心これを恥じ憎み、表向きは「私は原巨先と共に三輔を鎮めようというのに、一吏の些事で彼を軽んじるものか」と語ったが、賓客を通じて渉に自ら獄に入り謝罪するよう伝えさせ渉はこれに従った。賓客の車数十台が渉を獄まで送ったが、建は兵を遣り道中で渉を車から奪い取らせ、送りの車は散り散りに逃げ、渉は斬られ首は長安の市に晒された。
- 哀帝・平帝の間、郡国の各地に豪傑がいたが、州郡に名を知られたのは霸陵の杜君敖、池陽の韓幼孺、馬領の繡君賔、西河の漕中叔らで、いずれも謙退の風があったという。王莽の摂政期、豪俠を誅鉏する中、漕中叔を名指しで捕らえようとしたが捕らえられなかった。中叔は日頃から彊弩将軍孫建と親しく、莽は建が匿っているのではと疑い、さりげなく問いただしたところ、建は「私が彼を評価していたことで誅されるならそれで責めを塞ぐには十分でしょう」と答えた。莽は残忍な性質で容赦しない人物であったが、建を重んじ深く追及せず、ついに中叔は捕らえられなかった。中叔の子少游もまた俠をもって世に聞こえたという。