外戚の融和を説いた諫臣
- 杜鄴、字は子夏。魏郡繁陽の人。祖父・父は郡守を歴任、母は張敞の娘で、鄴は張敞の子張吉に学び、孝廉で郎となる。車騎将軍王音と親しく、王譚(平阿侯)が城門職を辞退した経緯に絡み、音に「周公・召公の兄弟和合の故事に倣い、成都侯王商への厚遇を平阿侯とも分かち合うべき」と説き、両者の融和を図る進言を行った。この諫言が評価され王音・王商双方に重んじられ、侍御史・涼州刺史を経て哀帝期、傅太后・丁太后の外戚偏重を機に方正の士として召され、対策で「陰陽の理に照らせば女は夫の家に従うべきで政に関与すべきでない」「新都侯王莽の免官と対照的に、傅氏・丁氏一族が次々と特別な恩寵を受けているのは天変の因である」と、傅・丁両氏の外戚偏重を鋭く批判した。天子に「陛下は謙遜で専断せず、太后らの意向に迫られている」と同情しつつ、日食・地震の凶兆を機に古の範に立ち返るよう促した。上奏後まもなく病没。もと張吉の学統を継ぎ、子の杜林は文字学(小学)に優れ、建武年間に大司空に至り、小学の学統は「杜公」の名で称えられた。
史論
- 賛:成帝の代は外戚諸舅に政を委ね、哀帝の代は丁氏・傅氏がそれに次ぐ権勢を握った。ゆえに杜鄴は丁氏・傅氏を敢えて譏ることができたが、杜欽・谷永は王氏について語ることができなかった。それぞれの置かれた勢いによるものである。杜欽が王鳳の権を抑えようとしたのに対し、杜鄴は王音・王商に阿附し、谷永は「三七の戒め」を説いて忠を示したこともあったが、申伯の故事を引いて王鳳を庇い平阿侯を車騎将軍に譲らせ、金火の異変を持ち出して王音に取り入るなど、信義に乏しく弁舌ばかりが勝った面があった。孔子は「直き者を友とし、諒(誠実)なる者を友とし、多聞なる者を友とすれば益あり」と言うが、杜鄴・杜欽・谷永の三人は、そのうち多聞にのみ近い者たちであった。