災異論による諫言
- 谷永、字は子雲。長安の人。父谷吉は衛司馬として郅支単于への使者として殺された(陳湯伝に詳しい)。永は若くして長安の小史から博学の士となり、御史大夫繁延寿に見出され太常丞となる。建始三年、日食と地震が同日に起きたことを機に方正直言の士として召され、対策で「五事(貌・言・視・聴・思)を正し皇極を建てるべき」「後宮の寵愛偏重(褒姒・閻妻の例)が政を乱す根源」と論じ、成帝の妃匹の乱れを厳しく諫めた。成帝はこれに感心して特に召見したが、その後の対策で永は一転して「災異の責は皇后・寵姫の専寵にある」としつつ、大将軍王鳳への疑いを払拭する弁護(重合侯莽通・安陽侯上官桀・博陸侯霍禹のような乱の兆しはないと外戚を擁護)を展開、王鳳への接近を図った。永は数千人の対策者の中で杜欽と並び上位に選ばれ、光禄大夫に抜擢された。王鳳への謝辞では「智伯・孟嘗君の食客の忠義」に自らをなぞらえ厚遇を得、鳳の死後は従弟の王音に取り入り、平阿侯王譚には城門兵の指揮を辞退するよう説くなど、外戚の権力構造に巧みに立ち回った。涼州刺史として黒龍出現の凶兆を機に上疏、「王者は自ら国を絶つ、危亡の言を天子に上げねば商周のように滅びる」と論じ、成帝の後宮偏重・昌陵造営の浪費・遊興による朝政放棄を痛烈に批判、日食・彗星などの災異を列挙して「三難(三つの重なる異変)」を警告する長大な上疏を奉った。この直言は成帝の逆鱗に触れ一時召還されかけたが、後に赦され大中大夫・光禄大夫・北地太守を歴任。天官・京氏易に精通し災異論に長じたが、その論はもっぱら成帝自身と後宮を攻めるにとどまり、王氏一族には及ばなかったため、王氏に党すると見られ深く信任されるには至らなかった。大司農として在任中に病没した。もとの名は「並」であったが、尉氏の反乱者樊並と同名であったため「永」と改めたという。