出自と苦学
- 翟方進、字は子威。汝南上蔡の人。家は微賤で、少年期に父を失い太守府の小吏となるが「頓才で仕事に及ばない」と侮られ、汝南の相人蔡父に将来を占わせたところ「経術で身を立てれば侯に至る骨相」と評され発奮、後母と共に長安に上り、機織りで生計を立てながら十余年『春秋』を修めた。射策甲科で郎となり議郎に進む。同門の胡常が先輩でありながら方進の名声に嫉妬し悪評を流したが、方進は門下生を通じて胡常の講義内容を尋ねさせ密かに敬意を示し続けたことで胡常の心を解き、以後親交を結んだという逸話が知られる。
丞相司直としての剛直な摘発
- 博士、朔方刺史を経て丞相司直となり、司隷校尉陳慶の職務怠慢を弾劾。北地の逃亡犯浩商の親族連座を巡っては、司隷校尉涓勲が丞相府の督促を「宰相の属官が天子の使者たる司隷を指図するのは道に反する」と反発し弾劾したが、方進は逆に涓勲の非礼(丞相・御史大夫への挨拶を怠り、貴人への態度が卑屈な二重基準)を摘発し免官に追い込むなど、朝廷の礼の秩序を厳格に正した。丞相薛宣も方進の実力を認め「翟司直はいずれ相位に就く」と語ったという。昌陵の造営に絡む貴戚・近臣の不正利得を摘発し、その手腕を買われ京兆尹に転じて豪強を取り締まったが、青州刺史胡常の忠告(貴戚を犯すことの危うさ)を機にやや威を緩めた。丞相薛宣の失脚に連座して執金吾に左遷されるも間もなく丞相に抜擢され、高陵侯に封じられた。
丞相としての峻厳な統治
- 富貴の身となっても後母への孝養を篤くし、喪に服す期間も国家の定めた大功十五日の制を超えず職務に復帰するなど自制を貫いた。私事の請託を受けず、法を厳格に運用して郡国の長官・九卿を厳しく弾劾し、陳咸・朱博・蕭育・逢信・孫閎ら京師の名家出身の能吏たちを次々と免職に追い込んだ。かつて自身が御史大夫の座を争った陳咸への対応には私怨の疑いも指摘されるが、陳湯との不正な結託や紅陽侯王立への阿附を理由に厳しく糾弾、王立自身の姦邪も繰り返し弾劾し、朱博・孫閎・陳咸の三名は「内に不仁、外に俊才」と評され免職・郷里送還となった。淳于長事件では自身も交友の疑いをかけられ辞意を示すが成帝に慰留され、逆に淳于長に厚かった官吏二十余人を弾劾する側に回った。榖梁春秋を学びつつ左氏伝・天文暦学(劉歆・田終術らを師とする)にも通じ、通明宰相と称された。
熒惑守心の凶兆と自殺
- 綏和二年春、熒惑(火星)が心宿にとどまる凶兆が現れ、議曹李尋の上書は「大臣が責を負うべき」と警告した。成帝は方進の十年に及ぶ在任中の災異・盗賊・訴訟の停滞を列挙する冊書を下し、暗に自裁を促した。方進はその日のうちに自殺、天子は破格の礼遇で弔い、諡は恭侯とされた。長子の宣が爵を継いだ。
翟義の挙兵と一族の滅亡
- 次子の翟義、字は文仲。南陽都尉として、宛令劉立の不遜な振る舞いを機知で処断した豪胆な逸話が知られる。東郡太守を経て、平帝崩御後、王莽の摂政を簒奪の兆しと見て「宗室の子弟を立て漢室を守るべき」と甥の陳豊に決意を語り、東郡都尉劉宇・厳郷侯劉信・平帝武侯劉璜と結んで挙兵、都試の日を利用して観令を斬り兵を集め、東平王の血筋である劉信を天子に擁立、自らは大司馬柱天大将軍と号し、王莽が平帝を鴆殺したと非難する檄文を郡国に発した。一時十余万の勢力に膨れ上がり長安を震撼させたが、王莽は孫建・王邑・王駿ら一族縁者を将軍に任じ大軍を発して迎撃、『尚書』大誥に倣った長大な詔(自らを周公に准え、正統性を訴える文)を発して人心を繋ぎとめた。義軍は圉城で撃破され、劉璜は討たれ、義自身も劉信と共に逃走したが固始で捕らえられ磔刑に処された。この間、三輔でも趙明・霍鴻らの呼応する反乱が起きたが同様に鎮圧された。王莽はこの功で多数を封侯し、自らの権威を固め、間もなく皇帝位に即いた(真の簒奪)。翟氏一族は、義の父方進の墓まで暴かれ棺を焼かれる報復を受け、三族が誅滅された。汝南では方進が民の水利(鴻隙陂)を排水させた施策が、後の旱魃で恨みを買い「壊陂は誰ぞ翟子威、我に豆食を飯らわせ芋魁の羹を食わす」という童謡が生まれるほど酷評された。
史論
- 司徒掾班彪曰く:丞相方進は孤児として老母を伴い京師に上り、身は儒宗となり宰相の位に至った、まことに盛んなことである。しかし王莽の勃興に際しては、天の勢いに乗じた王莽に対し、いかに孟賁・夏育のごとき勇者であっても敵し得なかったであろう。子の義は力を量らず忠憤に発して挙兵し、一族を滅ぼすに至った。悲しむべきことである。