漢書卷八十六 何武王嘉師丹傳第五十六 何武

緻密な吏才から公孫祿との謀へ

  • 何武、字は君公。蜀郡郫県の人。宣帝の代、天下泰平で瑞祥が続き、益州刺史王襄は弁士王褒に漢の徳を頌える「中和樂職」詩三篇を作らせた。武は十四、五歳のとき成都の楊覆衆らとともにこの詩を習い歌った。時に宣帝は武帝の故事にならい通達茂異の士を求めており、武らを宣室に召見。「これは盛徳の事、朕何ぞこれに当たるに足らんや」として王褒を待詔とし、武らに帛を賜って帰した。武は博士に詣でて業を受け易を治め、射策甲科で郎となり、翟方進と交わり互いに友とした。光祿勲の四行挙により鄠令に遷るが法に坐して免官、帰郷した。
  • 武の兄弟五人は皆郡吏となり郡県に敬憚された。兄の顕の家に市籍の租税未納があり、市嗇夫の求商が顕家を辱めたことに顕が怒り商を陥れようとしたが、武は「わが家の租賦徭役が人より先んじないのはむしろ当然、公吏を辱めるべきでない」と諫め、太守に商を卒吏に取り立てるよう白した。州里はこれを聞いて皆感服した。
  • 太僕王音の推挙で賢良方正に挙げられ対策により諫大夫、揚州刺史に遷る。挙奏する二千石長吏には必ず先に罪状を通告し、服罪すれば減刑して罷免するにとどめ、服さねば極刑で奏し死刑に至ることもあった。九江太守戴聖(小戴、礼経の権威)は行状に不法多かったが、前任刺史は大儒として大目に見ていた。武は行部の際、囚徒の記録の審査を郡に委ねようとしたが、聖は「後進の若造が何を知って人の治世を乱そうとするか」と反発、審理に応じなかった。武が従事に聖の罪を廉察させると聖は恐れて自ら免官。後に博士となった聖は朝廷で武を誹謗したが、武は聖の悪を言いふらさなかった。聖の子が群盗に加わり廬江で捕らえられた際、聖は子の死を覚悟したが、武は公平に裁いて子を死罪から救った。以後、聖は恥じて服し、武が毎年京師に上奏に赴くたび必ず門前で謝恩した。武は二千石の有罪は即座に挙奏する一方、賢愚を問わず等しく敬したため、郡国はこぞって守相を重んじ、州内は清平に治まった。行部の際は必ずまず学宮を訪ね諸生を引見してその誦論を試し得失を問うた後に伝舎に入り、墾田の頃畝・五穀の豊凶を記録してから二千石に会うのを常とした。
  • かつて武が郡吏だった頃、太守何寿は武に宰相の器ありと見抜き、同姓のよしみで厚遇した。後に寿が大司農となり、その兄の子が廬江長史となった。武が上奏のため邸におり、寿の甥もたまたま長安にいたので、寿は酒宴を設け武の弟顕や旧友楊覆衆らを招き、甥を引き合わせて「これぞ揚州長史」と紹介したが、武はその才が乏しく一度も引見していないと知り、顕らは大いに恥じて武に告げた。武は「刺史は古の方伯、上が委任する一州の表率。職は善を進め悪を退けることにあり、吏の治績や隠逸を召見すべきで私情で問うべきではない」と答えたが、顕・覆衆に強く求められやむなく引見し、盃の酒を賜っただけであった。その年のうちに廬江太守が甥を推挙し、武の法を守る姿勢はこれほど徹底していた。刺史として五年、丞相司直に入り丞相薛宣に敬重された。清河太守として出仕したが数年で郡内の被災が四割を超え免官。大司馬曲陽侯王根の推薦で諫大夫に徴され兖州刺史に遷り、司隸校尉に入り、京兆尹に転じた。二年後、推挙した方正の人物が召見の際に立ち居振る舞いが慇懃すぎたことを咎められ「偽り」とされ左遷、楚内史に。さらに沛郡太守を経て廷尉に復帰。綏和元年、御史大夫孔光が廷尉に左遷されると武が御史大夫となった。成帝が辟雍を興し三公官を改めようとし御史大夫を大司空に改称、武はそのまま大司空となり汜鄉侯(琅邪不其)に封じられ食邑千戸。哀帝即位初、大臣への褒賞として南陽犫の博望郷を氾鄉侯国に改め、食邑千戸を加増した。
  • 武は人柄仁厚で士を推挙し人の善を称えるのを好んだ。楚内史時代には龔勝・龔舎を、沛郡太守時代には唐林・唐尊を厚遇し、公卿となってからは朝廷に推薦、この二人が世に顕れたのは武の力によるもので世はこれを重んじた。ただし朋党を疾み、文吏を推挙する際は必ず儒者に、儒者を推挙する際は必ず文吏に問うて相互に検証させ、吏を任用する際はまず科例を定めて請託を防いだ。その治世に華々しい名声はなかったが去った後も常に思われた。御史大夫・大司空として丞相翟方進と共に上奏し、諸侯王の断獄は本来、内史が典獄・政務を統括し中尉が盗賊を取り締まってきたが、今は王が断獄・政務に関与しないため中尉の職を廃して内史に併せ、郡国守相と同様に責任を一元化すべきと論じた。「内史の位は低いのに権は重く威職が上を超え、統ぶる者を尊ばぬのでは治めがたい。内史を太守と同格に、都尉を郡都尉と同格にして尊卑の序を正し権限の軽重を均すべき」と請い、認められて内史を中尉と改めた。
  • かつて武が九卿の時、三公官設置を上奏し、また方進と共に刺史を廃し州牧を置くことを上奏したが、後にいずれも旧に復した(詳細は朱博伝)。内史の件だけは実行されたが、武の施策は煩瑣で挙奏が多く賢と称されず、功名は薛宣に及ばないとされたが、経術の正しさ・直言では薛宣に勝っていた。
  • 武の継母が郡に在り、吏を遣って迎えようとしたところ成帝が崩じ、吏は道中の盗賊を恐れて継母を留め置いた。これを「親に篤くない」と譏る者があった。哀帝も大臣を入れ替えたく、策により武を免じ「挙錯が煩苛で衆心に合わず、孝の評判もなく悪名が流布している」として大司空印綬を上納させ帰国させた。五年後、諫大夫鮑宣がしばしば武の冤を訴え、天子は丞相王嘉の弁護に感じ入り、高安侯董賢も武を推薦したため、武は再び御史大夫に徴され一月余りで前将軍に転じた。
  • 先に新都侯王莽は国に帰り数年経っていたが、太皇太后の意向で京師に呼び戻され、莽の従弟の成都侯王邑が侍中として太皇太后の意を偽り哀帝に莽への特進・給事中を求め、哀帝もこれを太后に請うたが事が露見(太后に元よりその意なし)、太后は上に謝し、太后のゆえに誅殺は免れたが王邑は西河属国都尉に左遷され食邑千戸を削られた。後に太常推挙の詔が出た際、莽が私かに武に推挙を求めたが武は敢えて推挙しなかった。数か月後哀帝が崩じ、太后はただちに莽を召して大司馬董賢の印綬を収めさせ、有司に大司馬たるべき者を挙げさせた。莽は元大司馬として位を辞し丁氏・傅氏を避けたことで賢者と称され、太后の近親でもあり、大司徒孔光以下満朝が莽を推挙した。武は前将軍として左将軍公孫祿と親しく、二人だけで謀り「孝恵・孝昭の幼主の世に外戚の呂・霍・上官氏が権を持ち社稷を危うくした。今、孝成・孝哀と続けて嗣子なく、まさに幼主を選び立て輔弼すべき時、異姓の大臣に権を持たせず近親者を交え相錯えて国家の計とするのがよい」と考え、武は公孫祿を大司馬に推し祿もまた武を推挙した。しかし太后は自ら莽を大司馬に用い、莽は有司を諷して武・公孫祿が互いに推挙し合ったことを弾劾させ、二人とも免官となった。
  • 武が帰国した後、莽はますます権勢を強め宰衡となり、密かに従わぬ者を誅殺した。元始三年、呂寛らの事件が起こると、大司空甄豊が莽の意を承けて使者を遣わし党与を厳しく取り調べ、上党の鮑宣、南陽の彭偉・杜公子ら郡国の豪傑まで連座させ死者数百人に及んだ。武もこの誣告に巻き込まれ、大理正が檻車で武を召喚、武は自殺した。世の人々の多くが武の冤を惜しんだが、莽は衆心を宥めるため武の子況に爵位を継がせ刺侯と諡した。莽の簒位後、況は庶人に落とされた。