漢書卷八十二 王商史丹傅喜傳第五十二 傅喜

節を守った外戚

  • 傅喜、字は稚游。河内温の人。哀帝祖母定陶傅太后の従弟。若くして学を好み、哀帝の太子時代に太子庶子となり、即位後衛尉、右将軍を経て、王莽が外戚を憚り退いた後、衆望を集めた。従弟の孔鄉侯傅晏(皇后の父)や帝舅丁明が外戚として重んじられる中、喜は謙譲を貫き、傅太后の政治介入をしばしば諫めたため疎まれ、大司馬の座を師丹に譲り光禄大夫として引かれた。大司空何武・尚書令唐林らは「忠臣は国家の守りであり、季友・子玉・信陵君・范増の故事に照らしても一賢臣は万軍に勝る」と喜の再登用を強く求め、成帝もこれを重んじ、翌年大司馬・高武侯に任じた。丁氏・傅氏一派は喜の恭倹を妬み、傅太后が成帝母と並ぶ尊号を求めた際、喜は丞相孔光・大司空師丹と共にこれに反対、太后の怒りを買い、師丹の免官に続いて喜も策免され封国に帰された。哀帝崩御・平帝即位後、王莽により傅氏一族が処分される中、喜は「傅太后と縁がありながら最後まで邪に従わなかった」と評価され、特進・奉朝請の礼遇を受けたが、孤立の憂いの中でついに再び封国へ戻され、天寿を全うした。諡は貞侯。

史論

  • 賛:宣帝・元帝・成帝・哀帝の代に興った外戚は許氏・史氏・三王氏(許・史・王)・丁氏・傅氏の家であり、皆重侯累将で富貴を極めたが、その位に見合う人物は乏しかった。陽平の王氏(王鳳の一族)は才ある者もいたが権勢に頼り、王莽に至って国を覆した。王商は剛毅な節義を持ちながら廃黜され憂いのうちに死んだが、その罪ではなかった。史丹父子は相継いで重んじられ、丹の輔導は誠実で太子の地位を安定させ忠貞の報いを得た。傅喜は節を守って傾かず、歳寒に凋まぬ松柏の誉れを得た。哀帝・平帝の代における禍福の転変の速さよ。