漢書卷八十二 王商史丹傅喜傳第五十二 史丹

史丹、字は君仲。魯国の人、後に杜陵に移住。祖父史恭の妹が悼皇考(宣帝の父)を産んだ縁で宣帝と結び付き、父史高は宣帝崩御時の輔政大臣となった。元帝の太子(成帝)に長く近侍し、竟寧元年、元帝重病の折に太子交代の動きを死を賭して諫め、成帝の即位を実現させた功臣。成帝即位後は武陽侯に封じられ信任を得たが、奢侈を好む一面もあった。

年表(2件)
  • 竟寧元年元帝の病床で太子交代の動きを諫め、太子(成帝)の地位を確定させる
  • 永始年間十六年務めた将軍職を病で辞し、まもなく薨去

成帝擁立の功臣

  • 史丹、字は君仲。魯国の人、杜陵に移住。祖父史恭の妹は衛太子の良娣として悼皇考(宣帝の父)を産み、宣帝は微賤の頃から史氏を頼った縁で、丹の父史高は宣帝崩御時の輔政大臣に列した。丹は元帝の太子時代から十余年侍従し、元帝即位後は駙馬都尉侍中として寵愛され、太子家の後見を託された。傅昭儀の子定陶共王が才芸に優れ寵愛を集める一方、太子には酒色の過失があり地位が揺らいだ際、元帝が音楽の才を賞賛したのに対し、丹は「真の才とは経学に敏くあること、楽器の技芸で人を評すれば陳恵・李微が匡衡より優れることになる」と諫めた。中山哀王の弔問で太子が悲しみを表さなかったことに元帝が怒った際も、丹は「太子に涙を見せぬよう自分が戒めた、罪は臣にある」と身を挺して庇った。竟寧元年、元帝重病の折、太子交代の噂が広まる中、丹は病床に直参し「太子は嫡長で十余年、天下の心が帰しているのに動揺の議があると聞く、もし事実なら群臣は死を賭して争うだろう」と涙ながらに訴え、元帝の翻意を得て太子の地位を確定させた。成帝即位後、長樂衛尉・右将軍・光禄大夫を経て武陽侯に封じられ、外柔内剛の人柄で信任を得た。奢侈を好む一面もあり、十六年間将軍職を務め永始年間に病で辞し、まもなく薨去。子孫は九男が皆侍中となるなど繁栄したが、王莽期に絶えた。