緻密な吏才
- 薛宣、字は贛君。東海郯の人。廷尉書佐・都船獄吏を経て大司農属官から不其丞に累進、琅邪太守趙貢に見出され「わが子二人も丞相史となる資質」と評されるほどの能吏として頭角を現す。楽浪都尉丞、幽州刺史推挙で宛句令、大将軍王鳳の推挙で長安令となり治績を上げ、御史中丞として成帝に上疏、刺史の苛政の弊害(条職を越えた過剰な摘発が民の情誼を損なう)を指摘して評価された。臨淮太守・陳留太守として治安を回復し、左馮翊として不遜な高陵令楊湛・櫟陽令謝游を、密書で穏便に辞職へ導く手腕(罪証を示しつつ「自ら進退を図れ」と促す)や、能力不相応な県令同士を入れ替えて双方を治める采配など、緻密で情理を尽くした統治を行った。属吏の廉潔な部下が冤罪を恐れて自殺した際は厚く弔い、冬至の慣例休暇を拒む部下を礼と道理で諭すなど、威儀を重んじつつ人情味のある吏道を実践、御史大夫谷永の推薦で御史大夫、まもなく丞相・高陽侯となった。しかし儒雅を好む成帝の代にあって経術に乏しく軽んじられ、広漢の盗賊鎮圧の遅れや卭成太后の喪の際の性急な賦斂を咎められて丞相を罷免された。後に翟方進の恩義で復権し高陽侯に復するが、淳于長事件に連座して再び免官。子の況が博士申咸への私怨から刺客を放ち咸を傷害した事件では、公卿の議論の末、況は父を弁護する動機を酌量され減刑(敦煌への流刑)となり、宣自身も連座して庶人に落とされ家で没した。晩年、敬武長公主を妻に迎えたが没後、公主は況の不行状(王氏との対立、私通)に絡んで王莽により毒殺される悲劇に至った。