剛毅な丞相
- 王商、字は子威。涿郡蠡吾の人、杜陵に移住。父王武・伯父王無故は宣帝の舅として侯に封じられた。商は太子中庶子として謹厳篤実で知られ、父の死後は爵位を継ぎ、財産を異母弟らに分与するなど徳行で称えられ、諸曹侍中中郎将に抜擢、元帝期に右将軍光禄大夫に至る。定陶共王への寵愛が太子(成帝)を脅かした際、外戚重臣として太子を擁護する力があった。成帝即位後、左将軍に転じるが、帝の元舅大司馬大将軍王鳳の専権・驕慢に異を唱え疎まれる。建始三年、長安で洪水の流言により騒乱が起きた際、王鳳が城壁への避難を提案したのに対し、商独り「無道の国でも水が城郭を冒すことはない、これは流言に違いない」と冷静に判断し、事実その通りとなって天子に称賛され、王鳳は面目を失った。翌年、匡衡の後任として丞相となり益封を受け、威風堂々たる風貌(身長八尺余)で単于の来朝の際にも畏怖されるほどであった。王鳳の縁者楊肜(琅邪太守)の失政を摘発しようとした際、鳳の圧力にも屈せず弾劾を進めたことで深く恨みを買い、鳳は密かに商の私生活の不祥事(女弟の姦通と奴による殺人疑惑)を暴かせ、大中大夫張匡による激烈な弾劾(左道を用いて政を乱し、呂不韋・春申君の故事に准える)を経て、成帝は当初処罰を渋ったが王鳳の強い主張に押され、商は丞相を罷免され、三日後に吐血して薨去した。諡は戻侯。子孫は連座で官職を追われたが、後に京兆尹王章が商の無罪と忠直を訴えたことが伝わっている(章は逆に誅された)。子安が爵を継ぐが、王莽期に自殺し国は絶えた。