漢書卷八十一 匡張孔馬傳第五十一 張禹

張禹、字は子文。河内軹の人、後に蓮勺に移住。易・論語に通じた経学者で、成帝の東宮時代に論語を教えたことから重用され、丞相安昌侯に上った。晩年は財を蓄えて広大な田地を持ちながら、災異を政治批判に利用しようとする動きを経術の立場から鎮め、王氏の専権を擁護する役回りも果たした。

年表(2件)
  • 初元中皇太子(後の成帝)へ論語を授けるよう推薦される
  • 建平二年薨去。諡は節侯

経学と権勢への配慮

  • 張禹、字は子文。河内軹の人、後に蓮勺に移住。幼時に占いを好み易・論語を学び郡文学に挙げられる。蕭望之の試問で評価され博士となり、初元中に皇太子(成帝)へ論語を授けるよう推薦され、成帝即位後に関内侯・光禄大夫を経て丞相安昌侯となった。大将軍王鳳と共に尚書事を領する立場に不安を感じ辞意を示すも、成帝の慰留で職にとどまった。晩年は財を蓄え広大な田地・財産を持ち、弟子の淮陽彭宣(大司空に至る)を敬して疎遠に、沛郡戴崇(少府に至る)を親しんで宴楽を共にするなど処遇に差をつけた。自らの墓地選定を巡り曲陽侯王根と対立したが天子の信任は揺るがず、日蝕・地震が頻発し王氏専権への批判が高まった際も「災異は聖人も軽々に語らぬもの、経術で判断すべき」と成帝に進言し、王氏への疑念を鎮めた。成帝崩御後、哀帝の代まで在世し建平二年に薨去、諡は節侯。