漢書卷八十一 匡張孔馬傳第五十一 孔光

孔子十四世の孫として

  • 孔光、字は子夏。孔子の直系子孫(伯魚―子思―子上帛―子家求―子真箕―子高穿―順―鮒―襄―忠―武・安国―延年―霸―光と続く)。父の孔霸は元帝の師として関内侯・襃成君の号を賜り、謙譲を貫き丞相の座を三度辞退した。光は若くして経学に明るく、諫議大夫、博士を経て成帝期に尚書として法令に精通、慎重で過失なく信任を得て光禄勲御史大夫に至る。成帝の後継を巡る議論では、翟方進・王根らが定陶王(後の哀帝)を推す中、光独り「兄弟の子ではなく実弟の子である中山王を立てるべき」と『尚書』盤庚の兄終弟及の例を引いて主張したが容れられず、廷尉に左遷。淳于長事件の裁定では、法解釈の妥当性を厳密に論じ評価された。哀帝即位後、丞相となるも、傅太后の処遇(居所・尊号)を巡り師丹と共に反対したことで傅氏一派の恨みを買い、策免(詔で免官)された。数年の間に朱博・平当・王嘉と丞相が目まぐるしく交代した末、元寿元年の日蝕を機に再召され、天人相関の理を説く上疏(災異は天の譴告、徳を修めて応ずべし)で評価され大司徒に復帰。平帝擁立後は王莽の専権のもと太師の位に置かれ、莽の意向を代弁する上奏を余儀なくされる立場に苦悩しつつ、七十歳で没した。三世にわたり公輔の位を占め、公正に職務を尽くし、私的な推挙を一切行わなかったことでかえって恨まれるほどだった。子孫は孔子祭祀の襃成侯として代々続いた。