漢書卷八十 宣元六王傳第五十 中山孝王興
中山孝王興
- 建昭二年に信都王として立てられ、十四年後に中山王に徙封。成帝の立太子議論では、御史大夫孔光が「殷の兄終弟及の制に照らし元帝の子である中山王を後継とすべき」と主張したが、外戚王氏・趙昭儀は不材とされる中山王を退け哀帝(定陶王の子)を推し、それが通った。天子は中山王の舅馮参を宜郷侯に封じ、孝王には食邑一万戸を加増して慰めた。三十年で薨去、子の衎が継ぐ。七年後、哀帝が無嗣で崩御すると衎が召されて即位、平帝となった。太皇太后は成帝の後継として平帝を扱ったため、中山孝王の後継には別に東平思王の孫桃郷頃侯の子成都を立てたが、王莽期に絶えた。
史論
- 賛:孝元帝の後裔は遍く天下を治めることとなったが、その子孫は孫の代で絶えた。天の意志であろうか。淮陽憲王は当時の諸侯の中でも聡察であったが、張博の誘惑により無道の罪にほとんど陥りかけた。『詩経』に「貪る者は善を敗る」とあるのは、古今変わらぬ理である。