漢書卷八十 宣元六王傳第五十 東平思王宇
東平思王宇
- 甘露二年に立てられ、元帝即位後に国に赴くと素行が乱れ法を犯したが至親ゆえ罪を問われず、傅相が連座を繰り返した。太后との不和を理由に太中大夫張子蟜(僑)が璽書を奉じて諭され、王は悔い改めて謝罪した。傅相への訓戒として五経以外の書に基づく非礼な行いを戒める詔が下された。元帝崩御後、天子交代の混乱に乗じ「自分が輔政に望まれている」と自惚れて服喪中も飲食を怠らぬ不謹慎な言動があり、寵姫朐臑を絞殺した罪で県二つを削られたが、後に改心を認められ元に復した。晩年、諸子百家・太史公書の下賜を求めたが、大将軍王鳳の反対により却下され、三十三年で薨去。子の煬王雲の代、哀帝期に王后謁が巫蠱で天子を呪詛した事件が発覚し、雲は房陵へ廃徙となり自殺、后は棄市、国は除かれた。後に王莽により再興と分封が繰り返されたが、翟義の反乱に連座して滅んだ。