出自と太子との関係
- 孝宣帝の五男は、許皇后が生んだ孝元帝、張倢伃が生んだ淮陽憲王欽、衛倢伃が生んだ楚孝王囂、公孫倢伃が生んだ東平思王宇、戎倢伃が生んだ中山哀王竟である。欽は元康三年に立てられた。霍皇后廃后の後、宣帝は張倢伃を皇后に立てたい意向を持ちながら霍氏の禍を恐れ、無子で謹慎な王倢伃を立てて太子を養わせた。欽は聡明で経書・法律に通じ、経学を好む太子とは対照的に法家肌の才を示し、宣帝から「真に我が子」と評され、寵愛の張倢伃との関係もあって一時は太子交代が意識されたが、許后が非業の死を遂げた早世の母を思う情から宣帝は太子を廃さなかった。丞相韋賢の子韋元成を淮陽中尉に任じ、礼を重んじる補佐で欽を諭させたことで太子の地位は安定した。
張博の讒言事件
- 元帝即位後、欽は淮陽国に赴任。外祖母の一族張博兄弟が頻繁に淮陽を訪れ賜与を受けていたが、王が外家を国に移そうとした際、博だけは墓守を理由に残留を望み、王の不興を買った。後に博は多額の借財の肩代わりを王に求め、拒まれると弟の光を使って懐柔し、「朝廷に賢臣なく災異が頻発する、王が入朝して天子を輔けるべき」と煽り、婿の京房(易学者で石顕・五鹿充宗に排斥されていた)から得た災異の予言を利用して欽に入朝を勧め、金五百斤と引き換えに便宜を図ると約す私信を交わした。京房が地方に転出した隙に石顕がこの陰謀を摘発、博兄弟と京房は逮捕され、事は誹謗政治・妖言惑衆の大逆として裁かれることとなったが、元帝は欽への温情から処罰を控え、諫大夫王駿に璽書を持たせて諭させ、欽が悔い改める旨を上奏したため京房・張博兄弟のみが棄市(妻子は辺境に流刑)に処された。成帝即位後、叔父として厚遇され、博の家族の流罪解除を求めた上書が再び「不敬」と咎められたが赦され、三十六年在位して薨去、子孫は王莽期に絶えた。