漢書卷七十九 馮奉世傳第四十九 馮奉世

出自と西域での功

  • 馮奉世、字は子明。上黨潞の人、杜陵に移住。先祖の馮亭は韓の上黨守で、秦の攻撃を受け上黨を趙に帰属させ趙に華陽君に封じられたが長平の戦いで戦死、子孫は潞や趙に分散した。秦末には馮毋択・馮去疾・馮劫が将相となり、漢では馮唐がその後裔として知られる。奉世は良家の子として郎に選ばれ、昭帝期に武安長を失官後、三十余で春秋・兵法を学び直し、前将軍韓増の推挙で軍司空令となる。西域諸国への使者として大宛に赴く途上、莎車国が漢の使者を殺し北道諸国を煽動して離反した事態に際し、副の厳昌と協議、独断で節を用いて諸国の兵一万五千を発し莎車を攻略、王を自殺に追い込み首を長安に送った。この功により西域は鎮まったが、少府蕭望之が「使者が矯制して他国の兵を動かした前例を残すべきでない」と反対したため封侯は見送られ、光禄大夫・水衡都尉にとどめられた。

羌族討伐と晩年の功績

  • 元帝期、執金吾を経て、上郡属国の降胡反乱を鎮圧し右将軍典属国に昇進、後に光禄勲となる。永光二年、隴西の羌彡姐種が反乱すると、丞相・御史大夫らが対応に窮する中、奉世は「兵は再興せず糧は三度運ばずして速やかに決すべき」として四万の兵での即時討伐を主張したが、朝議は一万人の駐屯にとどめる方針を採り、後に二千人増員のうえ一万二千で出征させた。前軍が敗れる事態を受け、奉世は増兵を求め、朝廷は六万余の大軍を発し奮武将軍任千秋を援軍として派遣、両軍合流の後、羌軍を大破し首数千級を挙げて反乱を鎮圧した。功により関内侯・食邑五百戸・黄金六十斤を賜り、爪牙の官を十年務め、その武功は趙充国に次ぐと評された。奉世死後、西域都護甘延寿が郅支単于を誅した功で列侯に封じられた例を引き、杜欽は「奉世の莎車討伐の功は延寿に劣らぬのに封じられなかった」と追贈を上疏したが、先帝時代の事として採用されなかった。

馮野王(附伝)――剛直な地方官

  • 長子の馮譚は軍功を挙げるも拝命前に病死。次子の野王、字は君卿。詩経に通じ、十八歳で長安令を志願する上書をするなど早くから志が高かった。隴西太守として治績を上げ左馮翊に転じ、部下の督郵掾祋祤趙都が県令の不正を摘発した事件では、無実を証すため趙都が自殺するほどの信頼関係を築き、その威信で知られた。大鴻臚として中二千石の考課で行能第一とされたが、元帝は「外戚びいきと見られる」として三公への登用を避け、少府五鹿充宗らを引き立てた。成帝期、王舅として九卿にとどまるべきでないとされ上郡太守に転出。琅邪太守を経て、大将軍王鳳の専権を京兆尹王章が批判し野王を後任に推した一件に連座を恐れ、病と称して帰郷。杜欽は「賜告と予告の法解釈の不整合」を指摘し野王を弁護したが、大将軍王鳳は聞き入れず野王は免官となった。以後、二千石が病で賜告を得ても帰郷を許されない先例となった。子座が爵を継いだが、孫の代に中山太后(野王の姉媛、元帝昭儀)の事件に連座して絶えた。

馮逡・馮立・馮参(附伝)

  • 馮逡、字は子産。易に通じ、復土校尉・美陽令・長楽屯衛司馬・清河都尉・隴西太守を歴任、清廉な治績で知られたが四十余で没した。河隄の方策についての言は「溝洫志」に記す。
  • 馮立、字は聖卿。春秋に通じ、王舅として五原属国都尉、五原太守、西河・上郡太守を歴任、兄野王と似た公廉な治績に加え恩情深く、兄弟継承した治世は「大馮君・小馮君、政は魯衛の如し」と歌われた。東海太守で湿地の風土病を患い太原太守に転じ、五郡を歴任し老いて官で没した。
  • 馮参、字は叔平。尚書に通じ黄門郎・給事中として長く宿衛したが、厳格で親しみにくく側近に用いられなかった。王舅として渭陵食官令、寝中郎、上河農都尉、代郡太守、安定太守などを歴任。中山王(姉の子)が皇太子に立てなかった代償として宜郷侯に封じられたが、王の薨去に伴い自ら爵位返上を願い出て関内侯に落とされた。丞相翟方進の忠告(外戚として謙譲すべし)にも生来の礼儀を守り通したが、哀帝期、傅太后が姉中山太后への旧怨から祝詛大逆の罪を着せた事件に連座し、自殺に追い込まれた。臨終に「一族十七人が死に、地下の先人に合わせる顔がない」と嘆いた。

史論

  • 賛:『詩経』は「抑抑たる威儀は徳の廉隅」と称える。宜郷侯馮参は謹厳に方正な道を歩み、淑人君子と呼ぶにふさわしかったが、ついに無実の罪で非業の死を遂げた。哀しむべきことである。讒邪が貞良を害するのは古来のならいで、伯奇の放流、孟子(寺人)の宮刑、申生の縊死、屈原の投江もまた同じ理に発する。馮参姉弟の悲劇もまた、これに連なるものである。