経歴と厳格な治績
- 王尊、字は子贛。涿郡高陽の人。幼くして孤児となり牧羊で育つも独学で書を修め、獄吏から出発し文学官に師事、律令に通じて決曹史、幽州刺史従事、遼西塩官長を歴任。虢令のとき継母を虐待した不孝な子を処刑した苛烈な逸話(律に妻を母とする規定なし、として異例の処断)がある。安定太守として着任時に属県へ布告文を発し、法を犯す吏を厳しく戒め、五官掾張輔の不正蓄財を摘発し獄死させるなど、苛烈な統治で郡内を震え上がらせた。羌族反乱鎮圧の任にあたるも一時包囲され、擅離部署の罪で免官されたが後に郿令、益州刺史に復帰。険しい九折阪で先任の王陽(孝子として道を避けた)に対し「忠臣は驀進する」と豪語し馭者に進ませた逸話が有名。
東平相・京兆尹としての気骨
- 東平相として驕奢な東平王を、璽書受領の作法や礼儀を通じて厳しく戒め、王が怒っても意に介さず対峙、逆にその胆力に王が感服する場面もあった。太后が王妃の危機を訴えて尊を弾劾させ、免官となる。大将軍王鳳に推挙されて司隷校尉となり、中書謁者令石顕の専権を丞相匡衡・御史大夫張譚が黙認していたことを、石顕失脚後に厳しく弾劾。丞相の不敬な振る舞いも糾弾したが、逆に「妄りに大臣を誹謗した」として左遷され免官となった。南山の盗賊鎮圧に功を上げられなかった諸将に代わり京兆尹代理に起用されると旬月で治安を回復、正式な京兆尹となる。
再度の失脚と黄河での節義
- 司隷の仮佐が詔書の不備を指摘した件で対立し「詔書に京兆の文言なし」と拒んだことなどが「暴虐で改まらない」と弾劾され、再び免官。湖の三老公乗興らが治績を訴えて復権を求め、南山盗賊討伐に功のあった経緯も評価され、諫大夫・京輔都尉代理として復帰、その後正式な京兆尹となった。長吏楊輔による私怨に基づく讒言(過去の遺恨)で再度弾劾を受けるが、公卿の議論の末、無実と認められ罪を免れた。徐州刺史、東郡太守を経て、黄河瓠子の堤防決壊の危機に際し、自ら白馬を沈めて河伯を祀り、「身をもって堤を塞ぐ」と現場に留まり続けた気概に吏民は感激、洪水は治まり天子から称賛と加増を受けた。数年後、任地で没した。子の伯も京兆尹となったが軟弱を理由に免官された。