経歴と諫言
- 張敞、字は子高。河東平陽の人。祖父孺は上谷太守、父福は光禄大夫。宣帝に従い杜陵に移住。郷有秩から太守卒史となり甘泉倉長、太僕丞を経て、昌邑王が即位し法度を乱した際、上書して諫めたことで名を上げ豫州刺史に抜擢。大中大夫として大将軍霍光への阿附を避け、正論を貫いた。函谷関都尉、山陽太守を歴任。霍光死後、その一族が要職を離れる際、封事を奉り「大将軍の功に報いつつも権勢の偏りを正すべき」と進言したが、宣帝は当初これを用いなかった。
勃海・膠東での治績
- 勃海・膠東で盗賊が蜂起した際、自ら治安回復を志願し上書、膠東相に任じられた。密告・恩賞の制度を整え盗賊を投降・相互告発させて解散させ、功のあった吏を尚書に推挙して県令に任じるなど成果を上げた。王太后の頻繁な遊猟を古の故事(葉陽后・樊姫の例)を引いて諫め、太后は遊猟を止めた。
京兆尹としての治績と失脚
- 潁川太守黄霸の後任として京兆尹となり、長安の盗賊多発(酋長格の首謀者数人が温厚な富裕層を装っていた)を、赭土を衣に塗って印をつけさせる計略で一斉検挙し、法に基づき処罰して治安を回復した。政治は趙広漢の方法を踏襲しつつ、儒学に基づく穏当さも併せ持ち、長く在任した数少ない京兆尹となった。一方で威儀に乏しく、朝会後に章台街を馬で走らせたり、妻の眉を自ら描いてやる(「張京兆の眉は美しい」との評判)など私生活が問題視された。光禄勲楊惲の逆罪連座で公卿が処分される中、敞の処分だけは保留されたが、賊捕掾絮舜が敞への恩を軽んじ職務を放棄した一件で舜を捕らえ処刑し、これが不当な殺害として弾劾され、庶人に落とされた。逃亡していたが冀州で盗賊が起こると天子に呼び戻され、冀州刺史として広川王の一族による盗賊の隠匿事件を摘発、王宮に踏み込み首謀者を捕らえ処断した。その後太原太守に転じ、元帝即位後に召還されようとしたが病没した。子は皆都尉に至った。弟の張武は梁相となり、兄の助言を受けて厳格な統治で治績を上げた。孫の竦は王莽時代に郡守・侯に至ったが敞の代で家系は絶えた。