漢書卷七十六 趙尹韓張兩王列傳第四十六 王章

剛直な諫言と刑死

  • 王章、字は仲卿。泰山鉅平の人。諫大夫を経て元帝期に左曹中郎将となり、御史中丞陳咸と共に中書令石顕を弾劾したが逆に讒言で咸は減死・髠刑に処された。成帝即位後、諫大夫、司隷校尉、京兆尹を歴任。大将軍王鳳の推薦で登用されながらも阿附せず、日食を機に王鳳の罷免を封事で進言、当初は聞き入れられたものの後に翻意され、王鳳の恨みを買って大逆の罪に陥れられた(詳細は元后伝)。若い頃、貧窮し牛衣にくるまり病臥した際、妻に励まされた逸話(「今の困窮を嘆くのではなく奮起せよ」)が知られる。後年、栄達した後も妻の忠告を振り切って封事を上奏し、下獄。娘(十二歳ほど)は獄中の呼び出しの数から父の死を予見し的中させた。妻子は合浦に流されたが、後に王商が大将軍となると赦されて故郷に戻り、蕭育の計らいで田宅も取り戻した。京兆尹在任二年で不当に死んだことを民は悼み、王尊・王章・王駿(王陽の子)を併せて「三王」と称した。

史論

  • 賛:孝武帝が左馮翊・右扶風・京兆尹を置いて以来、吏民は「前に趙・張あり、後に三王あり」と語り継いだ。劉向は独り趙広漢・尹翁歸・韓延夀・馮商の伝を『新序』に載せず、王尊についても揚雄と同様その美点を論じた。広漢は聡明で下の者に欺かれることがなかったが、延夀は善を励みつつも上を訐いて信を失い身を滅ぼした。翁歸は公正・清廉で近世の模範とされる。張敞は忠実に努めて儒雅を飾り、刑罰と赦免に節度を保ったが、軽薄との評も免れなかった。王尊は文武を自任し、赴任先で必ず奇策・大言を発した。王章は剛直で節を守ったが軽重を量らず刑戮に陥り、妻子は流罪となった。哀しむべきことである。