漢書卷七十四 魏相丙吉傳第四十四 丙吉

丙吉、字は少卿。魯国の人(?–五鳳三年)。法律に通じた獄吏出身で、巫蠱の獄に連座した幼い皇曾孫(後の宣帝)を身を挺して守り、宣帝擁立にも尽力しながら長くその功を語らず、後に宣帝自ら旧恩を知って博陽侯に封じた。丞相として寛容の政風で知られ、魏相と共に宣帝中興期を支えた名臣。

年表(4件)
  • 後元二年巫蠱の獄で郡邸獄の皇曾孫(後の宣帝)を守り抜き、武帝の大赦で命を救う
  • 地節三年皇太子(後の元帝)の太子太傅となり、まもなく御史大夫に昇進する
  • 五鳳三年病篤くなり、後継に杜延年・于定国・陳万年を推挙する
  • 鴻嘉元年旧恩により孫の昌が博陽侯に再封され、国絶三十二年ぶりに祀が続く

皇曾孫(宣帝)の保護

  • 丙吉、字は少卿。魯国の人。律令に通じ魯の獄史から廷尉右監まで昇るが法に触れ免官、州従事となった。武帝末の巫蠱の獄で廷尉監として召され郡邸獄の巫蠱事件を治めることとなった。当時生後数ヶ月であった皇曾孫(後の宣帝)が衛太子事件に連座して繋がれており、吉はこれを憐れみ無辜と信じ、謹厚な女性の徒刑者を選んで乳を与えさせ乾いた場所に置くなど配慮した。巫蠱の獄が数年決着せぬ中、後元二年、武帝の望気者が「長安獄中に天子の気がある」と言上したことから、武帝は郡邸を含む中都官の詔獄の囚人を軽重を問わず皆殺しにせよと命じたが、吉は夜間に来た使者の内謁者令郭穣を「皇曾孫が他人でも無辜の死は許されぬ、まして親曾孫だ」と門を閉ざして拒み続け、夜明けまで対峙した末、穣が引き返して事の次第を奏上すると武帝も悟るところがあり「これは天の配剤だ」として天下に大赦し、郡邸獄の囚人は吉のおかげで命拾いした。

宣帝擁立への功

  • 曾孫は何度も命の危険に晒されたが、吉はその都度乳母の保養を手厚くし私財で衣食を給した。後、車騎将軍軍市令から大将軍長史に転じ霍光に重んじられ、光禄大夫給事中に至る。昭帝崩後、大将軍霍光は吉を遣わし昌邑王賀を迎えたが、王は即位後淫乱の行いで廃されることになり、後継が定まらぬ中、吉は霍光に上申書を送り「先帝より輔政を託された将軍の責は重い、遺詔で養われた武帝の曾孫病已は掖庭外家にあり幼少期から見知っているが今や十八九歳、経術に通じ人柄も安らかで節操があり、蓍亀を占うまでもなく擁立すべき」と進言、霍光はこれを容れ宗正劉徳と共に曾孫を掖庭から迎えて宣帝を擁立した。吉は関内侯を賜ったが、深く恩着せがましさを厭う人柄から即位後も自らの功を一切語らなかったため、朝廷はその功を長く知らなかった。地節三年、皇太子(後の元帝)が立つと吉は太子太傅となり、数ヶ月で御史大夫に昇進、霍氏誅滅後は宣帝が親ら政務を執るようになった。

旧恩の発覚と博陽侯封

  • 掖庭の宮婢である則が民籍の夫を通じて「かつて阿保(養育)の功があった」と上書し、その調査で丙吉が事情を知っていることが露見した。吉は則に「お前は曾孫の養育を怠り笞刑を受けた、功などない、恩があったのは渭城の胡組・淮陽の郭徴卿のみだ」と証言し、組・徴卿の子孫は厚賞を受け、則は庶人とされ十万銭を賜った。宣帝はここで初めて吉の旧恩を知り、それを一切語らなかった人柄を大いに賢とし、「朕の微賤の時、御史大夫吉には旧恩があった、詩にも『徳に報いぬことなし』とある」として博陽侯に封じ食邑千三百戸を与えた。吉は重病であったが、太子太傅夏侯勝が「陰徳ある者は必ずその楽しみを子孫に享受する、今吉が病重いのはまだ報いを得ていないからで死病ではない」と予言した通り、病は癒えた。吉は空名での受賞を固辞したが宣帝は「これは空名ではない、辞退は朕の不徳を示すことになる」と諭し受爵させた。

丞相としての寛容

  • 五年後、魏相に代わり丞相となる。吉はもと獄法の小吏から詩・礼を学び大義に通じ、丞相の位では寛大で礼譲を好み、掾史に過失があっても長期の休暇を与えるのみで決して案験しなかった。「三公の府に吏を摘発する慣習を作るのは狭量だ」と述べ、以後公府が吏を摘発しないのはこの故事に始まる。御者が酒好きで職務を怠け、酔って丞相の車を汚した際も西曹が処罰を求めたのに対し「酒失で士を追放しては誰も彼を容れまい、車の敷物が汚れるだけのことだ」と咎めなかった。この御者が辺郡出身で敵情を察知する経験を持ち、駅使の急報から匈奴が雲中・代郡に侵入したことを察知し吉に急報、老病の二千石長吏の予備調査を進言した功が評価され、吉は「士に容れぬ者はない、各々長所がある」と嘆じた。また、街頭で人が乱闘し死傷者が出ても関与を問わず、逆に牛が喘ぎ舌を出しているのを見て足を止め問わせた逸話について「人の闘争は長安令・京兆尹の職分だが、季節外れの暑さで牛が病むのは陰陽の調和に関わる、三公は陰陽の調和を司る職責がある」と説明し、掾史は吉の大局観に服したという。

薨去と評価

  • 五鳳三年、吉は病篤くなり、宣帝が後継を尋ねた際「群臣の能否は明主がご存知、愚臣には分からない」と固辞したが重ねて問われ「西河太守杜延年は法度に明るく九卿を十余年務め治績がある、廷尉于定国は法を執って公平、太僕陳万年は継母への孝行と品行方正、この三人は私より優れる」と答え、宣帝はこれをすべて容れた。後に杜延年・于定国・陳万年は次々と御史大夫・丞相を歴任し、いずれも職に称った。宣帝は吉を知人の明と称えた。吉薨じ諡は定侯。子の顕は甘露中、罪により関内侯に落とされたが衛尉・太僕に至った。吉の中子禹は水衡都尉、少子高は中塁校尉となった。元帝の代、士伍の尊という人物が上書し「かつて郡邸小吏として仕えた際、丙吉が皇曾孫の危難を庇い自らの私銭で乳を給し保護した実情を目撃した、吉は功を組・徴卿に譲り自らの功を語らなかった」と証言し、吉の子孫への恩賞回復を訴えた。成帝の代、鴻嘉元年、吉の旧恩は特に重いとして孫の昌が博陽侯に再封され、国絶三十二年ぶりに祀が続いた。子孫は王莽の代に絶えた。

史論

  • 賛:古の命名は必ず物象になぞらえるもので、君を元首、臣を股肱と呼ぶのはその一体性を示す。君臣は互いに補い合って初めて成る、これは古今変わらぬ自然の理である。漢の丞相を通観すれば、高祖の代は蕭何・曹参が冠たり、宣帝の中興期には丙吉・魏相の名声が高い。この頃は人材登用の序が整い諸職が修まり、公卿の多くがその位にふさわしく、天下は礼譲に興った。その事績を見れば、これは決して偶然ではないことがわかる。