漢書卷七十四 魏相丙吉傳第四十四 魏相

魏相、字は弱翁。済陰定陶の人(?–神爵三年)。剛毅で法を厳格に執行する吏才として知られ、宣帝の代に霍氏の専横を抑える上奏を行って丞相となり(高平侯)、匈奴出兵にも諫言してこれを止めさせた。丙吉と共に宣帝親政期の「中興」を支えた名臣として並び称される。

年表(2件)
  • 元康中匈奴出兵に反対し、義兵・応兵・忿兵・貪兵・驕兵の理を説いて宣帝に出兵を止めさせる
  • 神爵三年丞相在任九年で薨去、諡は憲侯

剛毅な吏才

  • 魏相、字は弱翁。済陰定陶の人で平陵に移った。易を学び郡卒史から賢良に挙げられ茂陵令となった。御史大夫桑弘羊の食客が御史と偽って伝舎に泊まった際、県丞が挨拶に来ないことに怒って丞を縛った事件で、相は客の姦を疑って捕らえ市で処刑したため茂陵はよく治まった。河南太守に転じ姦邪・豪強を畏服させたが、丞相車千秋の子が雒陽武庫令であった折、相が郡の統治を厳格にしたため罪を恐れて自ら官を去り、相の呼び戻しにも応じなかった。相は「大将軍霍光がこれを聞けば私が丞相の子を冷遇したと誤解するだろう」と危惧した通り、霍光は「幼主が立ったばかりで武庫は要衝、丞相の弟を関都尉に子を武庫令に任じているのに深く思慮せず子を疎んじるとは浅薄だ」と相を責めた。その後、相が人を賊殺した疑いで告発された際、河南の卒二三千人が霍光に自ら残留して太守の罪を贖いたいと訴え、老弱一万余人も上書のため関に集まる騒動となったが、霍光は先の武庫令の一件もあって相を廷尉獄に下し、冬を越えて赦により出獄した。丙吉が「朝廷は既に弱翁の治績を深く知っており大用されるだろう、慎んで自重せよ」と書を送り、相は威厳を和らげた。揚州刺史を経て諫大夫、再び河南太守を務めた後、宣帝即位に伴い大司農、御史大夫に累進した。

霍氏の専横への対処

  • 大将軍霍光薨後、宣帝がその子禹を右将軍、兄子(伝に「兄子」とあるが実際は孫)の山に尚書事を継がせようとした際、相は平恩侯許伯を通じて上書し、「春秋は世卿を譏り宋の三世専権や魯の季孫氏の専権を悪む、後元以来禄が王室を離れ政が冢宰に移っている、霍光死後も子が大将軍を継ぎ兄子が枢機を握り昆弟諸婿が兵権を占め、光の夫人顕や娘たちが長信宮に自由に出入りするなど驕奢放縦が募っている、その権を削ぎ陰謀を破って万世の基を固め功臣の家名を全うすべき」と説き、さらに従来上書は正副二通で提出され副本を尚書が先に検閲し不都合な内容は屏去する慣行があったことを指摘し、副封の廃止による壅蔽の防止を進言した。宣帝はこれを容れ、その後霍氏が許皇后を毒殺した陰謀が露見すると三侯(禹・雲・山)は罷免され親属も皆左遷された。韋賢が老病で退くと相は代わって丞相となり高平侯食邑八百戸に封じられ、霍氏はこれを怨みつつも憚り、太后の詔を偽って先に丞相を斬り帝を廃す陰謀を企てたが発覚し誅殺された。

匈奴出兵への諫言

  • 宣帝が親政を始め群臣を精練しようとする中、相は総領の職務で意にかなった。元康中、匈奴が漢の車師屯田を攻めた際、後将軍趙充国らは匈奴の衰えに乗じて右地を攻撃しようとしたが、相は上書し「乱を救い暴を誅すのを義兵、已むを得ず起つのを応兵、小事の恨みで怒りに任せるのを忿兵、人の土地財貨を欲するのを貪兵、大国を恃み威を誇るのを驕兵という、義兵は勝ち驕兵は滅ぶのは天道である、匈奴には近年悪意なく、車師の争いも意を用いるほどのことではない、今、辺郡は父子で犬羊の裘を着て草の実を食う困窮にあり、動兵すれば軍旅の後に必ず凶年がある、今年の統計でも子弟が父兄を殺し妻が夫を殺す事件が二百二十二件に及ぶ大事、これを憂えず遠夷への小さな恨みで出兵しようとするのは孔子の『季孫の憂いは顓臾になく蕭牆の内にある』との言葉そのものだ」と説き、宣帝は相の言に従い出兵を止めた。

故事に基づく施政

  • 相は易経に明るく師法を重んじ、漢の故事や便宜の奏章を好んで研究し、「今は古と制度が異なる、故事の遵行こそ肝要」として漢興以来の故事や賈誼・鼂錯・董仲舒らの言を条奏し施行を求めた。上疏では「陰陽の調和こそ国政の根本、天地の道理に従い四時の神(東方太昊・南方炎帝・西方少昊・北方顓頊・中央黄帝)の司る時節を誤らねば風雨が時に適い五穀が実る」との陰陽説を展開し、高祖の代に定められた「天子の服の四時対応の制」(春夏秋冬をそれぞれ趙堯・李舜・兒湯・貢禹が司った故事)を引いて時節に応じた政の重要性を説いた。掾吏の異変報告を怠らせず、丙吉と心を合わせて輔政に努め、宣帝からも重んじられた。人柄は厳毅で丙吉の寛大さとは対照的であったという。在任九年、神爵三年に薨じ諡は憲侯。子の弘は甘露中、罪により関内侯に落とされた。