漢書卷七十三 韋賢傳第四十三 韋玄成
韋玄成、字は少翁。韋賢の末子(?–建昭三年)。父の遺志を偽って継嗣に推されると狂を装って固辞しようとしたが許されず爵を継ぎ、後に不敬の罪で関内侯に爵を落とされるも、十年を経て父と同じ丞相の位に復帰した(扶陽侯)。丞相として郡国廟の廃止など宗廟制度改革を主導し、漢代の宗廟論争の端緒を開いた。文才に優れたが、守正持重の点では父に及ばないと評された。
嗣子争いと謙譲
- 玄成、字は少翁。父の任により郎・常侍騎となり、若くして学を好み謙遜下士の人柄で知られた。明経により諫大夫、大河都尉に累進した。兄の弘が太常丞として宗廟諸陵邑を掌る職務で罪科を重ねたため、父賢は弘を嫡子から外す意向であったが、弘が固辞せず係争中に賢が病篤くなり、後継を問われても賢は答えぬまま薨じた。門下生や宗族は賢の遺志を偽って玄成を後継とする上書を提出させた。玄成はこれが父の本意でないことを察し、偽って狂病を装い便利(大小便)を垂れ流し笑い戯れて昏乱の様を示したが、爵を継ぐよう朝廷に迫られ、丞相史からも「辞譲には道理を明らかにする文があってこそ後世に名を残せる、狂を装うのは名声を傷つけるだけ」と諭され、友人の侍郎章も上疏して「聖王は礼譲を尊ぶ、玄成の志を枉げず衡門の下に安んじさせるべき」と弁護したが、丞相・御史は玄成が実は病でないと弾劾し、詔により不問とされ、玄成はやむなく爵を受けた。宣帝はその節義を高く評価し、玄成を河南太守、兄弘を太山都尉から東海太守に任じた。
爵位剥奪と回復
- 数年後、玄成は未央衛尉から太常に昇るが、誅殺された平通侯楊惲との親交により免官された。後に列侯として孝恵廟の祭祀に列した際、雨で道がぬかるみ駟馬車を用いず騎馬で廟に至った罪で関内侯に爵を落とされ、玄成は父の爵位を貶めたことを深く恥じ、詩を作って自ら責めた(先祖韋孟以来の家系の栄光と自らの過失を詠んだ長詩で、要旨は先祖の功業を偲びつつ自らの不敬を悔い改める内容である)。
丞相への復帰
- 宣帝の寵姫張婕妤の子淮陽憲王が有能で法律に通じ、上(宣帝)は太子に代えたいと考えたが、太子が微賤の身から立てられた経緯や早くに母を失ったことを慮り断念した。後に憲王を礼譲の臣で輔けようと、玄成を淮陽中尉に任じた。玄成は太子太傅蕭望之ら五経諸儒と石渠閣で経義の異同を論じ、元帝即位後は少府、太子太傅、御史大夫を歴任し、永光中に于定国に代わり丞相となった。一度爵位を貶められた身から十年で父の相位を継ぐに至り、故国(扶陽侯国)の誉れとなった。玄成は再び詩を作り、丞相拝命の感慨と子孫への戒めを詠んだ(先祖の栄光を承け謹慎して職責を全うする決意と、後人への慎み深い戒めが主旨)。丞相を七年務め、守正持重の点で父賢には及ばぬが文才では勝ったと評される。建昭三年薨じ諡は共侯。賢は昭帝の代に平陵に移っていたが玄成は別に杜陵に移っており、臨終に際し使者を通じて「父子の恩を尽くしたい、父の墓のそばに葬ってほしい」と願い出て許された。子の頃侯寛、僖侯育、節侯沈と爵位は玄孫まで伝わり絶えた。玄成の兄で高寝令であった方山の子安世は郡守・大鴻臚・長楽衛尉を歴任し宰相の器と称されたが病でその位に至らず終わった。東海太守弘の子賞も詩に明るく、哀帝の定陶王時代の太傅であった旧恩により大司馬車騎将軍・三公の位に列し関内侯を賜り、八十余歳で天寿を全うした。一族で吏二千石に至った者は十余人に及んだ。
宗廟制度をめぐる論争――郡国廟の廃止
- 高帝の代、諸侯王の都にはすべて太上皇廟が置かれ、恵帝は高帝廟を太祖廟、景帝は文帝廟を太宗廟と尊称し、天子行幸の郡国にはそれぞれ太祖太宗廟が立てられた。宣帝の本始年間には武帝廟が世宗廟として尊ばれ、行幸地にも同様に立てられ、郡国の祖宗廟は合計六十八箇所、宗廟数百六十七所に及び、京師の高祖から宣帝・太上皇・悼皇考に至る各陵の廟と合わせて百七十六箇所、日祭・月祭・時祭を合わせ年間祭祀二万四千四百五十五回、衛士四万五千百二十九人、祝宰楽人一万二千百四十七人を要する巨大な体制となっていた。元帝の代、貢禹が「天子の廟は七廟に限るのが古礼、恵帝・景帝の廟は親等が尽き、郡国廟も古礼に合わない」と上奏したが実行に至らぬまま没し、永光四年、元帝は改めて郡国廟の廃止を諮問する詔を下した。丞相韋玄成・御史大夫鄭弘ら七十人が「祭祀は外から至るものではなく心の内から発する、天子は京師に廟を構え自ら祭を行い、四海はそれぞれの職分で助祭するのが古の道理、郡国に宗廟を置くのは礼に反する」と答申し、詔可されて郡国廟は廃止された(衛思后・戻太子ら特定の園については吏卒のみを置いて祭祀は停止)。
宗廟制度をめぐる論争――親廟の迭毀
- 廃止から一月余り後、さらに元帝は「親廟四代・太祖の廟は万世不毀とし、親等の尽きた廟は迭毀(順次撤去)すべき」という礼の原則に基づく議論を命じ、玄成ら四十四人は「太祖以下五廟を立て、親等の尽きた廟の主は太祖廟に合祀(祫祭)する古礼」を説き、高帝を太祖、文帝廟・恵帝廟・景帝廟の扱いを含め、太上皇廟・恵帝廟・景帝廟・皇考(悼皇考)廟をどう扱うかで議論が分かれた。車騎将軍許嘉ら二十九人は「文帝は誹謗の罪を除き肉刑を廃し倹約を尽くした徳により太宗廟とすべき」、廷尉尹忠は「武帝は正朔を改め服色を変え四夷を攘った功により世宗廟とすべき」と論じ、諫大夫尹更始ら十八人は「皇考廟(宣帝の父、史皇孫)を昭穆の序に加えるのは正礼に反し毀すべき」と主張した。元帝は一年ためらった末、「高帝は太祖、文帝は太宗として世々祭祀を伝える」と定め、景帝廟・皇考廟は親等が尽きたとして玄成らの議に基づき廃止、太上皇廟の主は陵園に埋め、恵帝は穆の位として太祖廟の寝園に遷し、以後の祭祀は簡素化された。翌年玄成はさらに「国君の母は正妻でなければ配食できない礼」を引き、孝文太后・孝昭太后の寝廟の祭祀簡素化を上奏し許された。
宗廟制度をめぐる論争――復旧と再廃止の往還
- 玄成薨後、丞相となった匡衡の代、元帝が病床で祖宗の霊が郡国廟廃止を譴めるのを夢見、弟の楚孝王も同様の夢を見たことから、天子は一旦廃止した諸廟の復旧を望んだ。匡衡は高祖・文帝・武帝の廟に祈禱の文を捧げ「皇帝の病が癒えねば臣衡が咎を受けるべき、天子の孝心により復修を認めるが、なお礼に照らせば復すべきでない」との趣旨を奏上しつつも、結局天子の意を汲んで一時的に諸廟を復旧した。その後も病状は好転せず数年にわたり復旧・再廃止が繰り返され、最終的に文帝廟を太宗、武帝廟を世宗とする体制のみ確定し、郡国廟は廃止のまま定着した。元帝崩後、成帝の代に匡衡は改めて「衛思后・戻太子の園は親等が尽きていないためそのまま、恵帝・景帝廟は親等が尽きたので廃すべき」と上奏し許された。もともと高后の代、先帝の宗廟を妄りに議論する者は棄市とする令があったが元帝の代に廃され、成帝は無嗣であったため河平元年に太上皇の寝廟園を復し世々祭祀することとしたが、その後も議論は続いた。
宗廟制度をめぐる論争――劉歆の「宗」論
- 成帝崩後、哀帝が即位すると丞相孔光・大司空何武は「永光五年の制書で高帝を太祖、文帝を太宗、建昭五年の制書で武帝を世宗と定め、以後変更しない」との原則を確認しつつ、迭毀の次第は改めて時に応じ定めるべきとして群臣に議論させた。光禄勲彭宣ら五十三人は「継体の五廟を過ぎれば賢君であっても祖宗と並べることはできず、武帝も功績はあれど親等が尽きれば毀すべき」と論じたが、太僕王舜・中塁校尉劉歆は反論し、「周室以来の匈奴(獫狁)との戦いの歴史、桓公の攘夷の功、漢の高祖以来の四夷平定の推移(冒頓の勃興、南越の脅威、文帝の和親、武帝による南越平定・匈奴駆逐・朝鮮征討・西域経略)を丁寧に辿り、武帝の功業は前代未聞であり、高帝を太祖、文帝を太宗、武帝を世宗とする体制はまさにこの功績に相応しい」と説いた。さらに劉歆は「天子七廟・諸侯五廟という数の規定は喪礼の尊卑の序に対応する常法だが、『宗』はこの数に含まれない特別な位で、功徳ある者を『宗』とすることに定数はない、殷の太甲は太宗、太戊は中宗、武丁は高宗とされ、周公も成王を戒めた『毋逸』篇でこれら三宗を模範として挙げている、武帝の功徳から見て世宗の廟を毀すべきではない」と論じ、哀帝はこの議を容れて武帝廟世宗の位を確定した。劉歆はさらに「日祭・月祀・時享・歳貢・終王という祭祀の遠近に応じた格差の理は、親疎の別に基づく自然な礼であり、祖廟を全く廃墟とすることは礼の本旨に反する」と補足し、班固は末尾に「貢禹以来、宗廟制度の議論は儒者ごとに紛々として定まらなかったが、劉歆の議は最も博く篤い」との評を付した(司徒掾班彪の評として伝わる)。
史論
- 賛(司徒掾班彪の言):漢は秦の学問断絶の後を承け、祖宗の制度は時に応じて定められてきた。韋玄成以後、学者は増え、貢禹が宗廟を毀し、匡衡が郊祀の場を改め、何武が三公の制を定めたが、いずれも後に何度も復されるなど紛々として定まらなかった。礼文が乏しく古今で制度が異なる以上、簡単に一つに定めることは難しい。諸儒の議論を通観すれば、劉歆の議論が最も博識で篤実であった。