禅譲を説き誅殺される
- 眭弘、字は孟。魯国蕃の人。若くして侠を好み闘鶏・馳馬にふけったが後に改心し嬴公に春秋を学び、明経により議郎、符節令に至った。孝昭元鳳三年正月、泰山莱蕪山中で数千人の騒ぎとともに巨石が自然に起立し、白烏数千羽がその傍らに集まり、昌邑の枯れた社木が横臥のまま蘇生し、上林苑の折れた大柳も自ら立ち上がり、虫食いの葉に「公孫病已立」の文字が浮かぶという怪異が相次いだ。孟は春秋の意に基づき「石・柳はいずれも陰の類、下民の象徴、泰山は王者の易姓を告げる地、大石が自立し倒れた柳が蘇るのは人力の及ぶところではない、匹夫から天子となる者が現れる兆し、社木が蘇生したのは廃絶の家であった公孫氏が再興する兆し」と解釈し、董仲舒の「継体守文の君であっても聖人の受命を妨げない」の説に基づき「漢家は堯の後裔、天下に賢者を求めて帝位を禅り、自らは百里の封に退くべき」と説く上書を友人の内官長賜を通じて提出した。当時は昭帝が幼く大将軍霍光が専政していたため、光はこれを悪み廷尉に下し、孟は「妖言惑衆・大逆不道」の罪で誅された。五年後、宣帝が民間より即位すると、孟の子は郎に召された。