于公の陰徳と獄治
- 于定国、字は曼倩。東海郯の人。父の于公は県獄史・郡決曹として決獄に公正で人々に慕われ生祠まで立てられた。東海の孝婦が姑の自死の冤罪で処刑された際、于公は無実を訴えたが容れられず、太守が強行して処刑した結果、郡は三年間の旱魃に見舞われ、後任太守が于公の言に従い孝婦の墓を祭ると大雨が降り豊作となった逸話がある。定国は父の跡を継ぎ獄史・廷尉史から侍御史中丞を経て、昌邑王廃立の際の諫言により光禄大夫、後に廷尉に抜擢され、老いてなお経術を学び謙恭で名高く「張釈之が廷尉であった頃天下に冤民なしと言われたように、于定国が廷尉であった頃は民自ら冤罪なしと信じた」と評された。廷尉十八年で御史大夫に昇り、甘露中に丞相・西平侯となった。元帝の代、天災に際し天子から度々責任を問う詔が下されたが、定国はそのつど誠実に謝罪と対応を尽くし、老いて安車駟馬・黄金を賜り致仕、諡は安侯。子の永は父の任で侍中・御史大夫に至り館陶公主を娶ったが早世、孫の恬は不肖であった。父の于公が「陰徳を積んだ子孫は必ず栄える」と予言した通り、定国は丞相、永は御史大夫に至り、代々侯を伝えたという。