漢書卷七十 傅常鄭甘陳叚傳第四十 甘延壽

郅支単于討伐

  • 甘延壽、字は君況。北地郁郅の人。羽林で投石抜距の技に優れ、遼東太守などを経て諫大夫・西域都護騎都尉として副校尉陳湯と共に郅支単于を誅斬、義成侯に封じられたが、子孫は王莽の代に絶えた。
  • 陳湯、字は子公。山陽瑕丘の人。博学だが素行に難があり、初元二年茂材に挙げられるも父の喪に奔らなかった罪で下獄、後に薦により郎となり西域副校尉として延寿と赴任した。当時匈奴は呼韓邪・郅支両単于が争い、呼韓邪は漢に降ったが郅支は西方の呼偈・堅昆・丁令を併せて自立し、漢の使者江迺始を辱め、初元四年には侍子を送りつつも漢を軽んじる態度を取った。湯は延寿に「西域諸国は匈奴を懼れ、郅支が烏孫・大宛を服せば西域は危うい、屯田吏士と烏孫兵を発して急襲すべき」と献策、延寿が朝議を経てから動こうとするのを見て「大策は容れられない」と判断し、延寿の病中に矯制して城郭諸国・車師戊巳校尉の兵を発した。延寿は驚いて止めようとしたが湯に説得され従い、両者は上疏で矯制の罪を自ら劾しつつ出兵、漢兵・胡兵合わせて四万余で六校に分かれ、南北両道から進撃した。烏孫の副王抱闐の略奪を撃退しつつ康居に入り、郅支城に迫って囲み、四面から攻めて城を陥し、単于を斬殺、閼氏・太子・名王以下千五百十八級を斬り、生虜百四十五人・降虜千余人を得た。延寿・湯は上疏し「彊漢の名に叛いた郅支の首を蛮夷の邸間に懸けて天下に示し、明らかに彊漢を犯す者は遠くとも必ず誅されることを知らしめるべき」と論じた。