漢書卷七十 傅常鄭甘陳叚傳第四十 陳湯
陳湯、字は子公。山陽瑕丘の人(生没年不詳、成帝代に没)。素行に難があったが、西域副校尉として甘延寿と共に矯制を犯して兵を発し、郅支単于を討伐・斬殺した功臣。功績への評価は毀誉相半ばし、収財の罪などで庶人に落とされることもあったが、王莽の代に破胡壮侯を追贈された。
功と罪の相克
- 論功に際し、中書令石顯・丞相匡衡らは矯制の責を理由に加封に反対したが、宗正劉向は「延寿・湯の功は方叔・吉甫の獫狁討伐や李広利の大宛遠征に勝るとも劣らぬ大功」と弁護し、元帝は延寿を義成侯、湯を関内侯に封じた。成帝の代、丞相匡衡は湯の不正な収財を弾劾し免官となったが、太中大夫谷永が「白起・子玉の故事を引いて功臣を軽んずるべきではない」と上疏し、湯は庶人に落とされたのみで済んだ。後に西域都護叚会宗が烏孫兵に囲まれた際、大将軍王鳳は湯の献策を求め、湯は「胡兵五が漢兵一に相当するとされるが今は三対一程度、囲む烏孫の兵は会宗を破るに足りぬ、数日で自然に解けよう」と的中させ、事から中郎に召された。その後、昌陵造営をめぐる利権がらみの不正(将作大匠解万年との謀議、上書による誘導、賄賂の授受など)が露見し庶人に落とされ敦煌・安定へと徙された。議郎耿育は「延寿・湯の功は先帝にも称えられたのに大臣の讒によって埋もれた」と冤を訴え、湯は長安に召還されたが老いて没した。王莽の代、湯の旧功が再評価され、延寿の孫は千六百戸を加封され、湯には破胡壮侯の諡が追贈され、子の馮は破胡侯に封じられた。