漢書卷六十三 武五子傳第三十三 廣陵厲王胥

巫蠱と自殺

  • 広陵厲王胥への策には「小子胥、赤社を受け南土に封じ世々漢の藩輔となれ、江南五湖の間の民は軽薄で揚州は強を恃むという、三代の要服には正しい教化が及ばなかった、心を尽くし恭順であれ、逸を好み小人に近づかず法に従え、『臣は福を作さず威を作さず』との書の教えを守れば後の羞を招かぬ」との旨が記された。
  • 胥は成長すると倡楽・逸游を好み力は鼎を扛げるほどで熊猪も素手で搏つほどの怪力だったが素行に法度がなく、ついに漢の嗣とはなれなかった。昭帝の初め封を万三千戸益され、元鳳中の入朝でさらに一万戸・銭二千万・黄金二千斤・安車駟馬・宝剣を賜った。宣帝の即位後は四子(聖・曾・寳・昌)がみな列侯に封じられ、小子の弘も高密王に立てられるなど手厚く遇された。
  • 昭帝の時、胥は上が年少で子がないことに乗じ野心を抱き、楚地の巫俗に従い女巫李女須を招いて神を降ろし呪詛させた。女須は「孝武帝が私に降りた」と泣き、周囲が伏し聴くと「必ず胥を天子にする」と告げたため、胥は女須に多くの銭を賜い巫山に禱らせた。折しも昭帝が崩じると、胥は「女須は良巫だ」と喜び牛を殺し禱った。昌邑王が徴されるとまた巫祝させ、その王が廃されると胥はますます女須らを信じ賜物を重ねた。宣帝が即位すると「太子の孫がなぜ立てられるのか」と言い、また女須に前と同様の呪詛をさせた。胥の女は楚王延寿の后で、延寿の弟の妻としばしば私信を交わしていたが、延寿が謀反の罪に問われた際その連座を疑われたものの詔により不問とされ、黄金前後五千斤などが胥に賜された。胥はまた漢が皇太子を立てたと聞き、姫の南らに「私はついに立てられまい」と言い呪詛を止めた。
  • のち胥の子・南利侯寳が殺人の罪で爵を奪われ広陵に帰り、胥の姫・左修と姦通した事が発覚し繋獄・棄市となった。相の勝之は王の射陂の草田を奪って貧民に分け与えることを奏し許可された。胥は再び前と同様の呪詛をさせた。胥の宮園の棗の木に十余の赤い茎が生え葉は白く素のようになり、池の水は赤く変じ魚が死に、鼠が昼間王の後庭で立って舞うなどの怪異が続き、胥は「棗・水・魚・鼠の怪異は甚だ悪い兆だ」と姫の南らに言った。数か月後、呪詛の事が発覚し有司が案験すると、胥は恐懼して口を封じるため巫と宮人二十余人を毒殺した。公卿は胥の誅殺を請い、天子は廷尉・大鴻臚を遣わし糾問させた。胥は罪は死に値し事実はすべてその通りだと認め、事が久しく複雑なので帰って熟考の上返答したいと請うた。
  • 使者を見送った後、胥は顕陽殿に酒を置き太子覇・子女の董訾・胡生らを召し夜通し飲み、寵姫の八子郭昭君・家人子趙左君らに瑟を弾かせ歌舞させた。王自ら「久しく生きたいと願うが終わりなく楽しめなければ何のために生きるのか、天命の期は延ばせず、黄泉は幽深、人生に死は必ずあるのに何を苦しむのか、心の喜びのままに楽しむ他ない」と歌い、続けて「死んでは代わりに雇う術もなく自ら逝くほかない」と結んだ。左右は皆代わる代わる涙を流し酒を勧め、鶏鳴時に宴は終わった。胥は太子覇に「上は私を厚遇して下さったのに、それに背いた咎は重い。私が死んだら骸骨は晒されるだろうが、幸い薄葬でよい」と言い、綬で自ら首を絞めて死んだ。父(あるいは友)の八子郭昭君ら二人も自殺した。天子は恩を加え王の諸子を庶人に赦し、諡して厲王とした。胥は立って六十四年で誅され国は除かれた。
  • 七年後、元帝は胥の太子覇を立て孝王とした。十三年で薨じ子の共王意が継ぎ三年で薨じ子の哀王護が継ぎ十六年で薨じ子なく絶えた。六年後成帝は孝王の子・守を立て靖王とし、二十年で薨じ子の宏が継いだが王莽の時に絶えた。高密哀王弘(広陵王胥の末子)は本始元年に立ち九年で薨じ子の頃王章が継ぎ三十三年で薨じ子の懐王寛が継ぎ十一年で薨じ子の慎が継いだが王莽の時に絶えた。