漢書卷六十三 武五子傳第三十三 昌邑哀王髆
昌邑哀王髆(?―天漢四年立、十一年で薨)は武帝の子。子の賀は昭帝崩御後、嗣子なきため霍光に迎えられ即位したが、わずか二十七日で淫乱を理由に廃位され、故国へ帰された。のち宣帝により海昬侯に封じられたが動静を監視され続け、不遇のうちに過ごした。
廃立の顛末
- 昌邑哀王髆は天漢四年に立ち十一年で薨じ、子の賀が継いで十三年、昭帝が崩じ嗣子がなかったため大将軍霍光が王賀を徴し喪主とした。璽書は行大鴻臚事の少府史楽成・宗正徳・光禄大夫丙吉・中郎将利漢に王を七乗の伝車で長安の邸まで招かせ、夜明け前に書が発せられその日の日中に賀は出発し晡時(夕刻)には定陶に至った。侍従の馬が次々死ぬほどの速さで、郎中令龔遂は諌めたが聞かれなかった。賀は済陽で長鳴鶏を求め道々竹杖を買い、弘農を過ぎては大奴の善に衣車で女子を運ばせ、湖に至ると使者が相の安楽を責めた。安楽は龔遂に告げ、遂は賀に問うと賀は「無い」と答えたが、遂は「無いなら何を惜しんで一人の善を庇い行義を毀すのか」と善を取り締まらせ衛士長に引き渡した。
- 賀は覇上に至ると大鴻臚が郊迎し騶が乗輿の車を奉じ、賀は僕の寿成に馭させ郎中令遂を参乗とした。翌朝広明の東都門に至ると遂は「礼では喪に赴く者は国都を望んで哭する、ここが長安の東郭門です」と言ったが、賀は「喉が痛くて哭せない」と答えた。城門でも遂が重ねて言うと賀は「城門も郭門も同じだろう」と応じた。未央宮東闕に至り、遂が「昌邑の弔い帳はこの闕外馳道の北にある」と告げ、帳前の南北道で馬がまだ数歩も進まぬうちに、遂は「大王は下車し闕に向かい西面して哀を尽くすべきです」と勧め、王は「分かった」と応じ礼のとおり哭した。
- 王は皇帝の璽綬を受け即位したが、わずか二十七日で淫乱の行いが続いたため大将軍は群臣と議し孝昭皇后に白して賀を廃し故国へ帰した。湯沐邑二千戸と旧王家の財物を賜り、哀王の娘四人にも各湯沐邑千戸を賜った(詳細は霍光伝にある)。昌邑国は除かれ山陽郡となった。
- 賀は在国当時からしばしば怪異があり、白犬で高さ三尺頭がなく頸から下は人に似て方山冠を被ったものを見、熊を見たが左右には誰にも見えなかった。大鳥が宮中に飛来したこともあり、王はこれを厭い郎中令遂に問うと、遂は五行志にあるとおりその意味を答え、王は天を仰いで「不祥な兆がなぜ度々来るのか」と嘆いた。遂は「臣は忠を隠さず危亡の戒めをたびたび申し上げていますが大王はお喜びになりません。国の存亡は臣の言葉次第ではありません、大王ご自身で反省なさるべきです。詩三百五篇は人事のすべてを網羅し王道の備わったものですが、大王の行いはそのどの一篇に当てはまりましょうか。大王は諸侯王の位にありながら行いは庶人にも劣り、存するより亡ぶ方が容易です、深くお察しください」と諌めた。のち王の座席が血で汚れる怪異が起こり、遂は「宮が空しくなるのも遠くない、妖祥がしばしば現れ血は陰憂の象、畏れ慎み反省なさるべきです」と叫んだが、賀は改めなかった。
- しばらくして王は青蠅の糞が西階の東に五、六石ほど積もる夢を見、屋根瓦で覆って発掘させると実際に青蠅の糞であった。遂に問うと「陛下がお読みの詩にも『青蠅は藩に止まる、君子は讒言を信じるな』とあります。陛下の側には讒言をなす者が多いのです。先帝の大臣の子孫を近侍として進め、昌邑の旧臣を疎んじられぬのは危険です、讒諛を信じれば必ず凶咎あり、禍を福に転じたいなら彼らを放逐すべきです、臣がまず逐われる番でしょう」と諌めたが、賀はその言を用いずついに廃位に至った。
- 大将軍霍光は改めて武帝の曾孫を尊立し孝宣帝とした。宣帝は即位すると内心賀を忌み、元康二年、山陽太守張敞に密かに賀の動静を監視させる璽書を下した。敞の報告によれば、故昌邑王は旧宮に居り奴婢百八十三人が仕え、大門を閉ざし小門のみ開け廉吏一人が銭物・市買・食物を管理し、督盗一人が別に王家の銭で雇った卒を用いて宮の清静を守っていた。地節四年九月、敞が視察した際、故王は年二十六、七、色青黒く目は小さく鼻は先が鋭く尖り髭眉少なく体は長大だが痿の病で歩行が不自由であった。短衣と大袴、恵文冠を被り、玉環を佩び簪筆を挿し木簡を持ち小走りに拝謁した。敞は座談中に妻子奴婢を閲し、その意を探るため「昌邑には梟(不吉な鳥)が多いですね」と水を向けると、王は「そうだ、以前長安に行ったときは全く梟を見なかったが、東に帰り済陽まで来ると再び梟の声を聞いた」と答えた。子女の閲覧では「持轡」という娘があり、故王は跪いて「持轡は母が厳長孫の娘(羅紨)だ」と答えた(敞は故執金吾厳延年の字が長孫であったことを知っていた)。妻十六人・子二十二人(男十一・女十一)の名籍と奴婢財物の簿を敞は上奏した。また敞は先に、哀王の歌舞者張脩ら十人には子がなく妾でもない良人であるのに王が薨じたのちも太傅豹らが留め置き哀王の園に仕えさせているのは違法だと指摘し帰郷させるよう請うたが、故王は「園を守る者が病んでも治療せず殺傷されても罪に問わなくてよい、早く死んでほしいのになぜ帰そうとするのか」と乱を喜ぶ態度を見せ仁義を全く顧みなかったという。丞相・御史はこの敞の書を奏聞し裁可され、以後宣帝は賀を恐れる必要なしと知った。
- その翌年春、詔して「舜が罪ある象を封じたように骨肉の親は分けても絶やさない」として、故昌邑王賀を海昬侯に封じ食邑四千戸を与えた。侍中衛尉金安上が「賀は天に見捨てられた者だが陛下は至仁をもって列侯に封じられた、賀は愚頑放縦の人であり宗廟を奉じる朝聘の礼にあずかるべきではない」と上書し許可された。賀は豫章の国に就いたが、数年後揚州刺史柯が、賀が故太守の卒史孫万世と交通し、万世が賀に「先に廃されたとき宮を出ず大将軍を斬って璽綬を奪われずに堅守しなかったのはなぜか」と問うと賀が「その通りだ、しくじった」と答え、さらに万世が「賀はいずれ豫章王になるだろう、列侯のままではあるまい」と言うと賀も「おそらくそうなるだろう」と応じたことを奏上した。これは言うべきでない言であるとして有司が案験し逮捕を請うたが、詔により戸三千を削るにとどめられた。
- 賀の死後、豫章太守廖は、舜が象を有鼻に封じたが死しても後継を置かず暴乱の人を一国の始祖とすべきでないとの前例を挙げ、海昬侯賀の死後継ぐべき子・充国が死に、次の弟奉親も死んだのは天がこれを絶ったのだとして、陛下の賀への恩は舜の象への恩にも勝るほど篤いのだから礼により賀の後継を絶つべきだと上奏し、議論の結果嗣子を立てず国は除かれた。元帝の即位後、賀の子代宗が再び海昬侯に封じられ、子から孫へと伝わり今なお侯である。
史論
- 賛にいう。巫蠱の禍は哀しむべきものであり、これは江充一人の罪だけでなく天の巡り合わせによるところもあろう。建元六年に蚩尤の旗(彗星の類)が天を貫くように現れ、その後河南を略取し朔方郡を建て、その春に戾太子が生まれた。以後三十年にわたる軍事行動で殺された者は数え切れず、巫蠱の事が起こると京師で流血し倒れた屍は数万に及んだ。太子とその子はともに敗れ、太子は兵とともに生まれ兵とともに終わった、これはただ一人の寵臣(江充)のせいだけではない。秦の始皇帝も即位三十九年、内に六国を平らげ外に四夷を攘い、死者は乱麻のごとく長城の下に骨をさらし、一日も兵の絶えることがなかったため、山東の乱が起こり四方が秦に叛き、内には賊臣が起こり禍は二世で成った。「兵は火のようなもので、収めなければ自ら焼く」との言のとおりであり、倉頡が「止」と「戈」を合わせて「武」の字を作ったのも、聖人が武を用いて暴を禁じ乱を整え兵を止めるためであって、残虐を興し縦にするためではないことを示している。『易』に「天の助ける所は順、人の助ける所は信」とあり、車千秋が蠱の情を見抜き太子の寃を明らかにしたことは、千秋の才知が特に人に優れていたわけではなく、悪を消し乱の源を遏め、衰運の中で善気を導いたことが天人の助けを得たのだといえよう。