漢書卷五十五 衛青霍去病傳第二十五 衛青

字は仲卿。河東平陽の人で、県吏鄭季と婢衛媼の間に生まれ、奴隷同然の身から姉衛子夫が武帝の寵を得たことで取り立てられた武将。七度にわたり匈奴を撃ち、河南の地を得て朔方郡を置く功を立て大将軍となったが、晩年は驃騎将軍霍去病の台頭により勢威が衰えた。

年表(4件)
  • 建元二年姉の衛子夫が入宮し武帝の寵を得て、青も建章監・侍中に召される
  • 元光六年車騎将軍として上谷から出撃し、関内侯を賜る
  • 元朔元年三万騎で鴈門から出撃、翌年には河南の地を奪還して長平侯に封ぜられる
  • 元朔五年右賢王を急襲して大功を挙げ、軍中で大将軍に任命される

出自

  • 衛青、字は仲卿。父の鄭季は河東平陽の人で、平陽侯曹夀(武帝の姉陽信長公主の夫)の家に県吏として仕えるうち、家の婢衛媼と通じて青が生まれた。青には同母兄衛長君と姉子夫がおり、子夫は平陽公主の家から武帝に幸されたため、青も母方の姓を冒して衛氏を名乗った。青は幼くして平陽侯の家人として父の元へ帰されるが、正妻の子らから奴隷同然に扱われ牧羊をさせられた。甘泉の居室(徒刑地)に随行した際、囚人の相人に「貴人の相だ、いずれ封侯になる」と言われ、青は「奴隷の子に生まれてこの身、鞭打たれず罵られなければ十分だ」と笑って答えたという。

皇后擁立と抜擢

  • 青は平陽侯家の騎従として建元二年春、姉の子夫が入宮し幸を得る。皇后(陳皇后、大長公主の娘)は子なく子夫の懐妊を妬み、青を捕らえて殺そうとしたが、友人の騎郎公孫敖が壮士を率いて奪い返し難を逃れた。武帝はこれを聞いて青を建章監・侍中に召し、母・兄弟にも数日で千金の褒賞が下る。姉の君孺は太僕公孫賀の妻、少兒は陳掌(陳平の曾孫)に嫁ぎ、公孫敖もこれを機に顕職を得た。子夫は夫人となり、青は太中大夫となる。

初期の匈奴遠征

  • 元光六年、車騎将軍として上谷から出撃(他に公孫賀は雲中から、公孫敖は代郡から、李広は鴈門から、各一万騎)。青は籠城で数百級の首を挙げるが、公孫敖は七千騎を失い、李広は捕らえられて贖罪により庶人となり、賀も無功で、青のみ関内侯を賜った。元朔元年春、衛夫人の男子が生まれ皇后に立ち、その秋、青は三万騎で鴈門から出撃し数千の首を挙げる。翌年、雲中から髙闕を経て隴西まで進み数千の首と百余万の家畜を得て、白羊・楼煩の王を退けて河南の地(朔方郡)を奪還。三千八百戸で長平侯に封ぜられ、部下の蘇建は平陵侯、張次公は岸頭侯となった。武帝は「匈奴が天理に逆らい老長を虐げ盗みを事とし辺境を害してきたため討伐した」との詔を下し、車騎将軍青の功績(髙闕を経て河南の地を平定し首二千三百級を得たこと)を称え三千八百戸を益封した。以後匈奴はしばしば代郡・鴈門・定襄・上郡に侵入した。

右賢王討伐と大将軍就任

  • 元朔五年春、青は三万騎で髙闕から、蘇建・李沮・公孫賀・李蔡ら六将が別道で出撃し右賢王を急襲。右賢王は油断して酒に酔い、夜襲を受けて数百騎の護衛と共に囲みを脱して逃走。漢は裨王十余人、男女一万五千余人、家畜数十万を得た。天子は使者を送り軍中で青を大将軍に任命、諸将はみな青の指揮下に入った。青の子三人(伉・不疑・登)が列侯に封じられそうになると、青は「陛下が既に厚く益封してくださり、幼い子らに何の勤労もないのに三侯を与えるのは、士を励ます趣旨に反する」と固辞したが、武帝は諸将校の功も改めて評価し、公孫敖・韓說・公孫賀・李蔡ら多くが列侯に封ぜられた。

衛青・蘇建・趙信――蘇建の敗戦と裁定

  • その後の遠征(合騎侯敖を中将軍、公孫賀を左将軍、翕侯趙信を前将軍、蘇建を右将軍、李広を後将軍、李沮を彊弩将軍とする編成)で、蘇建・趙信の軍三千余騎が単于本隊と一日以上交戦、趙信はもと匈奴出身で追い詰められ八百騎を率いて単于に降伏。蘇建は全軍を失いながら単身逃げ帰った。青は正閎・長史安・議郎周霸らに処断を諮った。周霸は「大将軍出征以来まだ裨将を斬ったことがない、今こそ建を斬って威を示すべき」と主張したが、閎・安は「小勢で大勢に当たり力戦して士卒を失っただけであり、自ら帰還して斬られるのは、以後の将に降伏を思いとどまらせぬ悪例になる、斬るべきでない」と反対。青は「私は肺附(外戚)の身で軍を預かる幸運を得ており、威を示す必要はない。むしろ天子の裁断を仰ぐべきで、自ら境外で誅殺権を専断しないことこそ人臣が権を専らにしない範を示すものだ」として蘇建を天子のもとへ送り、天子はこれを収監にとどめた。この年、霍去病が初めて侯に封ぜられた。