漢書卷五十四 李廣蘇建傳第二十四 蘇武

字は子卿、蘇建の末子。天漢元年、中郎将として匈奴に使節に赴いたが、部下の謀反への関与を疑われ降伏を拒んで自刺、その後も節を屈せず、北海(バイカル湖畔)で牧羊させられながら十九年にわたり漢の節を持ち続けた忠臣。始元六年に帰国して典属国を拝命し、晩年は功臣として重んじられた。

年表(4件)
  • 天漢元年中郎将として節を持ち、匈奴使節の送還に随行して派遣される
  • 始元六年十九年ぶりに都へ帰還し、武帝の園廟に太牢を献じて典属国を拝命する
  • 神爵二年八十余歳で病没する
  • 甘露三年単于の入朝を機に、宣帝が功臣を偲び麒麟閣に肖像を描かせた十一人の一人に列せられる

出自と匈奴への使節

  • 蘇武、字は子卿。父の任により兄弟共に郎となり栘中厩監に至る。武帝の代、漢は匈奴とたびたび使節を交わしていたが匈奴は漢の使者郭吉・路充国らを抑留していた。天漢元年、且鞮侯単于が即位すると漢の襲撃を恐れて抑留していた使者を送還したため、武帝はこれに応え中郎将蘇武に節を持たせ、副中郎将張勝・仮吏常恵らと共に匈奴使節を送還させた。しかし単于は驕り、送別の贈物を渡した際にも漢の期待には応えなかった。折しも緱王(昆邪王の甥)や長水虞常らが匈奴国内で謀反を企てており、緱王・虞常は投降していた衛律の部下と共に単于の母閼氏を拉致して漢に帰ろうと計画。虞常は漢在留時代に副使張勝と旧知であり、「漢の天子は衛律を深く憎んでいる、自分が漢のために弩で射殺したい」と持ちかけ、張勝は贈物で応じた。だが決行前に密告され、緱王らは戦死、虞常は捕らえられた。単于が衛律に取調べを命じたことを聞いた張勝は事の露見を恐れ蘇武に打ち明けると、蘇武は「事が露見すれば自分も咎を受け、国を辱める前に死ぬべきだ」と自殺を図るが常恵らに止められた。虞常は張勝の関与を白状し、単于は漢の使者殺害を諮るが左伊秩訾は「謀ったのが単于自身であればさらに重い処罰が必要だが、降伏させれば十分」と献策、単于は衛律に蘇武を召し取調べさせようとする。蘇武は「屈節して命乞いするなど生きて何の面目があろうか」と自ら剣で自刺、衛律は驚いて抱き止め医者を呼ぶ。地に穴を掘り煴火を焚きその上に武を伏せ背を踏んで血を出させると、半日後に息を吹き返した。単于は蘇武の節義に感じ、朝夕人を遣わし見舞わせ張勝を捕らえた。

降伏の勧誘と拒絶

  • 虞常の処刑に際し、衛律が「漢の使者張勝は単于の近臣殺害を謀った罪により死罪に当たるが、単于は降伏する者は赦す」と述べ剣を挙げて脅すと張勝は降伏を願い出た。衛律は蘇武にも「副使に罪があれば正使も連座する」と迫るが、蘇武は「元より謀にも関与せず親族でもないのになぜ連座するのか」と拒み、剣を突きつけられても動じなかった。衛律は「私も漢を裏切り匈奴に降ったが、王の号を賜り家畜は山を覆うほどの富貴を得た。今降れば私と兄弟同様の仲になれるが、拒めば二度と会えぬぞ」と誘うが、蘇武は「臣たる者、恩義を顧みず主君に背き親を捨てて夷狄の虜となるとは、なぜお前などに会う必要があろうか。単于がお前に人の生死を握らせながら正しく持しないのは、両国の争いを煽り禍を眺めて楽しむためだ。南越・宛王・朝鮮が漢の使者を殺してどうなったか知らぬのか、匈奴だけがまだ滅びていないだけだ。私が降らぬと知れば両国の攻撃の口実は私から始まる」と罵った。単于は蘇武を屈服させられないと知り、大きな穴(窖)に幽閉し飲食を絶つ。天から雪が降ると武は雪と旃の毛を共に噛んで飢えを凌ぎ、数日死なぬのを見て匈奴は神と畏れ、北海(バイカル湖)の無人の地に移し牡羊の乳が出たら帰してやると偽って牧羊させた。従者の常恵らも各地に別々に置かれた。蘇武は食糧の支給が絶え、野鼠の隠した草の実を掘り出して食い、漢の節を杖代わりに持ち続け、その旄は落ち尽くすまで五、六年経った。単于の弟於靬王が海辺で弋猟した折、武の網や弓弩の技を愛でて衣食を与えたが、王が病没すると再び窮乏し、丁令族に牛羊を盗まれ困窮を極めた。

李陵との再会と友情

  • かつて共に侍中を務めた李陵が先に投降し、蘇武が使者として来ていたことを知りながら会いに来ないでいたが、久しくして単于の命で北海の蘇武を訪ね酒宴を設けて「単于は貴殿と自分が親しいと聞き、帰る気のないあなたを説得しに来た。空しく人跡未踏の地で苦しんでも、信義の証などない。かつて貴殿の兄長君は奉車として雍の棫陽宮に随行中、車輪の柱にぶつかった不敬の罪で自刎、弟孺卿も宦官の逃亡事件で罪を得て服毒死した。母君もすでに亡くなり、私が葬送に立ち会った。妻も再婚したと聞く。人生は朝露のように儚い、なぜそこまで自らを苦しめるのか」と説いた。李陵はさらに「自分も投降時は忽忽として気が動転していた、老いた母が保宮に囚われた身であり、大臣も無実の罪で夷滅される時世、貴殿もいつまで誰のために節を守るのか」と繰り返し説得したが、蘇武は「私たち父子は功も徳もないのに陛下の恩を受け、位は将軍・爵は通侯に至った。肝脳を地に塗れても悔いはなく、臣が君に仕えるのは子が父に仕えるようなもの、死んでも恨みはない」と答え続けた。李陵はその至誠に嘆じて「義士よ、私と衛律の罪は天にも届くほど深い」と涙を流し訣別した。李陵は妻に命じて武に牛羊数十頭を贈った。その後も陵は再訪し、匈奴が捕らえた漢の生口から「先帝(武帝)が崩御した」と聞くと、蘇武は南に向かって号泣し血を吐くまで嘆いた。

帰国

  • 昭帝即位数年後、漢と匈奴が和親し漢が蘇武らの返還を求めると匈奴は「武は死んだ」と偽ったが、後に漢の使者が常恵の手引きで密かに真相を知り、「天子が上林苑で得た雁の脚に帛書があり、蘇武らが某沢にいると書かれていた」との作り話で単于を問い詰めると、単于は驚き武らの生存を認めた。李陵は酒を設けて武の帰国を祝い、「今回帰国すれば匈奴での忠節は漢で名を顕すだろう、私は貰恩を得て老母の恥を雪ぎたいと願っていたが、一族はすでに誅され戻るに戻れぬ。これが今生の別れだ」と歌を詠み涙した。蘇武は始元六年春、都に帰還し武帝の園廟に太牢を献じ典属国(秩中二千石)を拝命、銭二百万・公田二頃・宅一区を賜った。常恵ら随行者も官爵を得た。蘇武が匈奴に留まること実に十九年、壮年で出て白髪となって帰った。

晩年

  • 帰国翌年、上官桀の子安と桑弘羊、燕王・盖主らの謀反事件に武の子元が連座して死罪となる。武自身もかつて上官桀・桑弘羊と交誼があり、燕王からしばしば推薦された縁で疑われ、廷尉が逮捕を上奏したが霍光がその上奏を握り潰し、武は官を免ぜられるにとどまった。昭帝崩御後、故二千石として宣帝擁立の謀に参画し、関内侯・食邑三百戸を賜る。衛将軍張安世の推挙で明習故事の士として宣帝に召され、待詔宦者署に置かれた後、右曹典属国に復帰。節を守った老臣として朔望の朝賀に「祭酒」の号で優遇された。得た賞賜はすべて昆弟や旧知に施し家に財を残さなかった。老いて子を失った蘇武を武帝が案じた際、匈奴在留中に胡人の妻に産ませた子通国がいることが判明し、通国は使者と共に帰国し郎となった。蘇武は八十余歳、神爵二年に病没。甘露三年、単于が初めて入朝した折、宣帝は功臣を偲び麒麟閣に肖像を描かせ、その官爵姓名を記させた。霍光を筆頭に張安世・韓増・趙充国・魏相・丙吉・杜延年・劉徳・梁邱賀・蕭望之、そして蘇武(典属国)に至る十一人が名を連ね、周宣王を助けた方叔・召虎・仲山甫になぞらえられた。丞相黄霸・廷尉于定国・大司農朱邑・京兆尹張敞・右扶風尹翁歸や儒者夏侯勝らも善終で名を知られたが名臣図には列せられなかった。

史論

  • 賛:李将軍は素朴で無口な田舎者のようであったが、死んだ日には知る人も知らぬ人も皆涙した。心中の誠信が士大夫に通じていたからである。諺に「桃李言わざれども下自ら蹊を成す」というが、これは些細な喩えながら大きな真理を示している。しかし三代の将は道家に忌まれるとされ、李広から李陵に至り、その一族はついに絶えた。哀しいことである。孔子は「志士仁人は身を殺して仁を成すことあれど、生を求めて仁を害することなし。四方に使いしても君命を辱めない」と説いたが、蘇武はまさにこれを体現した人物であった。