漢書卷五十五 衛青霍去病傳第二十五 霍去病

大将軍衛青の姉少児の子で、皇后衛子夫の甥にあたる驃騎将軍。若くして騎射に優れ、隴西・河西・幕北への遠征でいずれも大戦果を挙げ、渾邪王数万の投降を導いた。士を顧みない一面もあったが、天運に恵まれ困窮を知らぬ用兵で知られ、元狩六年に若くして薨去した。

年表(3件)
  • 元狩三年驃騎将軍として隴西から出撃し、祁連山を攻めるなど大戦果を挙げる
  • 元狩四年衛青とともに幕北で匈奴を撃破し、狼居胥山に封じて禅を行う
  • 元狩六年薨去。景桓侯と諡される

若き驃騎の登場

  • 霍去病は大将軍青の姉少兒の子。父霍仲孺と少兒の間に生まれ、皇后(衛子夫)の甥として十八歳で侍中となり、騎射に優れ大将軍に従軍。大将軍から精鋭を与えられ剽姚校尉として八百騎で本隊から数百里離れて突出し、首級を得た数が損失を大きく上回る戦果を挙げた。武帝はこれを賞し、単于の祖父の行にあたる藉若侯産や単于の季父羅姑比を捕らえた功により冠軍侯・二千五百戸に封じた。

衛青・霍去病――王夫人への配慮と博望侯張騫

  • この遠征では合騎侯・郝賢らも功を立てたが、翕侯(趙信)の投降で大きな損失があったため青には益封がなく、贖罪した蘇建にも千金を賜るにとどめた。時に武帝は王夫人を寵愛しており、甯乗が青に「三子が皆侯になれたのは皇后のおかげ。王夫人の宗族もいずれ富貴になるだろうから、賜った千金を王夫人の母の長寿祝いに使えば将来の助けになる」と勧め、青は五百金を贈った。武帝がこれを問い質すと青は正直に答え、甯乗は東海都尉に取り立てられた。校尉張騫は大夏へ使いした経験を活かし匈奴の地理・水草を導いた功で博望侯となった。

隴西からの遠征

  • 去病は侯となって三年後の元狩三年春、驃騎将軍として万騎を率い隴西から出撃、烏盭を越え遫濮を討ち狐奴を渡り五王国を歴て、抵抗する者は討ち服する者は許すという方針で転戦。単于の子を捕らえかけ、焉支山を越え千余里、臯蘭山下で激戦、折蘭王を殺し盧侯王を斬り渾邪王の子・相国・都尉を捕らえ、首級八千九百六十級を得て、休屠王が天を祭る金人(仏像の起源とされる)を接収した。損害は匈奴側の十分の七に及んだという。二千二百戸を益封され、同じ夏、合騎侯敖・博望侯騫・李広は別道で出撃するが、李広は左賢王の数万騎に包囲され善戦するも張騫の到着遅れが咎められ贖罪、去病は道に迷った合騎侯と合流できないまま単独で祁連山まで深入りし、渉鈞耆・済居延を経て小月氏に至り祁連山を攻め、鱳得で武威を示し、単于・単桓・酋涂の諸王を得て二千五百人の降伏を受け容れ、五王・王母・単于閼氏・王子五十九人、相国・将軍・当戸・都尉六十三人を得た。損害は敵の十分の三ほど。五千四百戸を益封され、随行の校尉らもそれぞれ功により封侯・賜爵された。一方、合騎侯敖は遅参の罪で贖罪し庶人となった。

渾邪王の投降

  • 去病の軍は他の宿将に比べ士馬も選りすぐりで、深入りを恐れず常に先陣を切り天運にも恵まれ困窮したことがなかった。他の宿将は遅れがちで功を挙げられず、以後、去病は日に日に大将軍と並ぶ寵を得ていった。単于は西方の渾邪王がしばしば漢に破られたことを怒り誅殺しようとしたため、渾邪王は休屠王らと共に漢への投降を計画。大行李息が河上に城を築いていた折にこの申し出を知り急報、武帝は詐降を疑い去病に迎撃を兼ねた出迎えを命じた。去病が渡河して渾邪の衆と対峙すると、渾邪の裨王らの中に投降を渋り逃げ出す者があったため、去病は自ら単于(渾邪王)の陣に馳せ入り、逃亡しようとした者八千人を斬り、渾邪王を先に長安へ送り、残りの数万の衆を渡河させ、号して十万と称した。長安に至ると武帝は数十巨万の賞賜を下し、渾邪王を漯隂侯・万戸に封じ、裨王らもそれぞれ列侯とした。武帝は去病の功を「西域の王・渾邪王とその衆を漢に帰順させ、戦士に死傷なく、十万の衆が服し辺境が安んじた」と称え、千七百戸を益封。降伏者は河南の旧塞外の五郡に分けて配置し、その旧俗を改めず「属国」とした。

衛青・霍去病――幕北の決戦

  • 翌年、翕侯趙信が単于に「漢兵は幕(砂漠)を越えられまい」と献策していたため、漢は大挙して幕北への遠征を決断(元狩四年)。大将軍青・驃騎将軍去病それぞれ五万騎、輸送の歩兵は数十万に及んだ。当初去病を定襄から出す予定だったが単于が東にいるとの情報で去病を代郡へ、青を定襄へ変更。李広を前将軍、公孫賀を左将軍、趙食其を右将軍、曹襄(平陽侯)を後将軍として青に属させた。趙信は単于に「漢兵が幕を越えれば疲弊するので待ち構えて坐して虜にできる」と進言し、匈奴は輜重を遠く北へ退け精鋭で待ち構えていた。青の軍は塞外千余里で単于の陣と遭遇、武剛車で環営を作り五千騎で当たらせ、日没時に大風が起こり視界が悪化する中で両軍が入り乱れ、単于は六頭の駃騠(ラバの一種)に乗り数百騎で西北へ逃走。青は夜襲で追撃、単于本体は散り散りとなり、二百余里追跡して首級万余りを得た後、趙信の築いた城(窴顔山趙信城)で匈奴の貯えた食糧を得て一日留まり城を焼いて帰還。前将軍李広・右将軍趙食其の軍は東道で道に迷い、青が幕南で合流した後、責任を問おうとしたが李広は自ら自殺し、趙食其は贖罪して庶人となった。青の軍全体の首級は一万九千に及ぶが、青自身には益封がなかった。単于はこの戦いで十余日行方不明となり、右谷蠡王が自立して単于を称えたが、単于が生還すると号を返上した。

幕北での大戦果

  • 去病は輜重や兵力で大将軍に劣らぬ規模を有しながら裨将を失わず、代・右北平から二千余里、単于に近い方面の軍と直接対峙し、青より多い戦果を挙げた。武帝は「驃騎将軍去病は葷允(匈奴)の兵を率い、軽装で幕を越え単于の近臣章渠を捕らえ、北車耆を誅し左大将を攻めて旗鼓を得、難侯山・弓盧を経て屯頭王・韓王ら三人を捕らえ、将軍・相国・当戸・都尉八十三人を得て、狼居胥山に封じ姑衍に禅を行い翰海(瀚海、大砂漠)にまで至った」と称え、捕虜・斬首は七万四百四十三級に及び、損害は敵の十分の二にとどまり、遠征しつつ食糧も敵地で賄い糧道が絶えなかったとして五千八百戸を益封。随行の路博徳・衛山・因淳王復陸支・楼剸王伊即靬らもそれぞれ功により封侯された。この遠征で両軍あわせ塞を出た馬十四万匹のうち帰還時は三万匹に満たず、軍吏卒の賞賜は多かったが青には益封がなく、大司馬の位が新設され大将軍・驃騎将軍が共にこれに任じられ、驃騎将軍の秩禄が大将軍と並ぶ制度が定められた。以後、青は日に日に勢威が衰え去病は貴を増し、青の旧臣も次第に去病に仕えるようになったが、任安だけは青から離れなかった。

人柄

  • 去病は無口で気概があり武帝が呉孫の兵法を教えようとした際も「方略がどうかを見るだけで十分、古の兵法にこだわる必要はない」と答え、武帝が邸宅を建てて見せた際は「匈奴が滅びるまで家などいらない」と応じた。若くして侍中の貴顕でありながら士を顧みず、従軍時には天子から数十台の食料を賜っても帰路には粱肉を余して捨てる一方、士卒には飢える者もあった。塞外で食糧が尽きても去病自身は蹴鞠の場を穿って遊ぶなど、その振る舞いはこの類が多かった。青は仁にして士を喜び謙譲であり和柔で上に媚びたが、天下からの称賛は必ずしも得られなかった。

没後

  • 去病は元狩四年の遠征から三年後の元狩六年に薨去。武帝は哀悼し玄甲の軍を長安から茂陵まで並べて葬送させ、冢は祁連山を象って築かれた。「景桓侯」と諡され、子の嬗が継いだが嬗(字は子侯)も若くして薨じ子なく国は除かれた。去病の死後、青の長子宜春侯伉は法により侯を失い、弟の隂安侯不疑・発干侯登も酎金の罪で侯を失い、冠軍侯(去病の系)の国は絶えた。四年後の元封五年、青が薨じ烈侯と諡され、子の伉が六年で法に触れ免ぜられた。青が単于を包囲して以来十四年、漢は再び匈奴を大攻撃することはなかった。漢の馬が減り、南越・朝鮮・羌・西南夷の平定に力を割いていたためである。

衛青――平陽公主との縁

  • かつて青が貴顕となる前、平陽侯曹夀が悪疾で国に就いた後、長公主が誰が賢いか諸侯の中から問うと、左右の者は大将軍を挙げた。長公主は「あれは我が家に仕えていた者だ」と笑ったが、左右が「今や並ぶ者なき貴人です」と言うので、長公主は皇后に諷し、武帝の詔により青は平陽主を娶り、共に葬られ廬山を象った冢が築かれた。

衛青――総括

  • 大将軍青は凡そ七度匈奴を撃ち、首虜五万余級。一度単于と戦って河南の地を得て朔方郡を置き、再度の益封で合計一万六千三百戸、三子の封戸を合わせ二万二百戸に及んだ。裨将・校尉から侯に至った者九人、特将(別に一軍を率いた者)となった者十五人。李広・張騫・公孫賀・李蔡・曹襄・韓說・蘇建は各々別伝がある。

従軍諸将の略歴

  • 李息(郁郅の人)は景帝から仕え武帝八年目に材官将軍として馬邑に出陣、以後代・朔方への遠征を経て後には大行を歴任。
  • 公孫敖(義渠の人)は郎から仕え、騎将軍として代から出撃するも七千の兵を失い庶人となる。合騎侯を経て中将軍、将軍として北地から出撃するも失期して贖罪、後に因杅将軍として受降城を築き、余吾での遠征で兵の多くを失い斬に当たるが詐死して民間に潜伏、数年後に発覚し、妻が巫蠱の罪で連座し一族滅ぼされた。凡そ四度将軍を務めた。
  • 李沮(雲中の人)は景帝から仕え左内史から彊弩将軍を二度務めた。
  • 張次公(河東の人)は校尉として大将軍に従い岸頭侯に封ぜられ、太后崩御の際に将軍として北軍を統率、後に法に触れ侯を失った。
  • 趙信は匈奴の相国から漢に降り前将軍となるが匈奴に敗れ再び降伏した。
  • 趙食其(祋栩の人)は主爵都尉から大将軍に従い関内侯を賜るが、右将軍として道に迷い贖罪して庶人となった。
  • 郭昌(雲中の人)は校尉から抜胡将軍として朔方に屯するが昆明討伐で無功に終わり印を奪われた。
  • 荀彘(太原廣武の人)は御を能くし侍中となり校尉を経て左将軍として朝鮮を撃つが無功、樓船将軍を捕らえた罪で誅された。

総括

  • 驃騎将軍去病は凡そ六度匈奴を撃ち、うち四度は将軍として首虜十一万余級を挙げ、渾邪王の数万の投降を受け入れ河西・酒泉の地を開いた功により四度の益封で凡そ一万七千七百戸に及んだ。その校尉・吏で侯となった者六人、将軍となった者二人。路博徳(西河平州の人)は右北平太守として驃騎将軍に従い邳離侯に封ぜられ、去病の没後は衛尉から伏波将軍として南越を破る功でさらに益封されるが、後に法に触れ侯を失い彊弩都尉として居延に屯し卒した。趙破奴(太原の人)はかつて匈奴に亡命し漢に戻った後、驃騎将軍の司馬として北地から出撃し従票侯に封ぜられるが、財の贓罪で侯を失い、後に匈河将軍・浚稽将軍などを歴任し楼蘭王を捕らえるが、後に匈奴左王の八万騎に囲まれ捕虜となり十年間匈奴に留まった末、太子安国と共に漢に亡命帰還したが、後に巫蠱の罪で一族滅ぼされた。

史論

  • 衛氏が興り大将軍青が最初に封ぜられて以来、支族五人が侯となったが二十四年後に五侯すべて国を失い、征和年間に戾太子の事件で衛氏は滅んだが、去病の弟霍光は貴盛を保ち別に伝がある。
  • 賛:蘇建はかつて大将軍に「至尊にして重んじられていながら天下の賢士大夫から称賛の声がないのは残念だ、古の名将のように士を招くべきだ」と勧めたが、青は「魏其(竇嬰)・武安(田蚡)が士を厚く遇したことを、天子は常に切歯していた。士大夫を親しく招き賢を挙げ不肖を退けるのは君主の権限であって、臣下は法を奉じ職を守るのみ、士を招くことに何の関わりがあろうか」と答えた。驃騎将軍もまたこの姿勢に倣い、将たる者はこうあるべきとしたのであった。