漢書卷五十三 景十三王傳第二十三 中山靖王勝

中山靖王勝は景帝の子。酒色を好み子百二十余人を儲けた一方、来朝の宴で讒言に晒される藩王の苦衷を涙ながらに訴えた弁舌でも知られる。

年表(2件)
  • 孝景前三年中山王に立てられる
  • 建元三年来朝の酒宴で讒言を恐れる心情を訴え、武帝が諸侯への礼遇を厚くする契機となる

中山靖王勝

  • 中山靖王勝は孝景前三年に立った。武帝即位当初、大臣たちは呉楚七国の乱を教訓に晁錯の策が誤りだったとして諸侯王の力を削ろうとし、些細な過失を暴いて臣下に君主の罪を証言させることが多かった。建元三年、代王登・長沙王發・中山王勝・濟川王明が来朝した際、酒宴で音楽を聞いた勝は涙を流し、「悲しみは重ねられず、思いは歎きに代え難い。高漸離が易水で筑を打つと荊軻は食事も喉を通らなかった。今、心の結ぼれが久しく、微妙な楽の音を聞くだけで涙が溢れる」と語り、群衆の力(衆喣漂山・聚蟁成靁)が文王を牖里に、孔子を陳蔡に苦しめた例を引き、「自分は帝京から遠く党与も少なく、衆口鑠金・積毀銷骨の理で讒言に晒されても弁明する者がいない」と訴えた。「白日は幽隠を照らし、明月は蚊虻をも見せるが、雲や塵が覆えば泰山も見えなくなる。今臣は塞がれて上聞できずにいる。私は薄運ながらも肺附(外戚)として東藩に列し帝の兄弟と呼ばれるが、群臣は葭莩ほどの親しみもないのに徒党を組んで宗室を排斥し、伯奇や比干のような悲劇を招きかねない」と詩経(小雅小弁)を引いて訴えた。武帝はこれを聞き、諸侯への礼を厚くし有司の告発を減らして親愛の情を加えた。後に主父偃の献策により諸侯が私恩で子弟に領地を分割させる推恩の制が定められ、諸侯の地は次第に細分化されて弱小化した。勝は酒色を好み子百二十余人があったが、趙王彭祖とは互いに「兄は代わりに吏に政事をやらせ王者らしく音楽・声色を楽しむべき」「中山王は奢淫なだけで藩臣の務めを果たしていない」と非難し合った。四十三年で薨じ子の哀王昌が一年で薨じ、子の康王昆侈が二十一年で薨じ、子の頃王輔が四年で薨じ、子の憲王福が十七年で薨じ、子の懐王循が十五年で薨じ子なく四十五年絶えた後、成帝鴻嘉二年に憲王の弟の孫利郷侯の子雲客が廣徳夷王として立ち三年で薨じ子なく十四年絶え、哀帝が雲客の弟廣漢を廣平王としたが後継なく薨じ、平帝元始二年に廣川惠王の曽孫倫が廣徳王として立ち靖王の祀を奉じたが王莽の時に絶えた。

長沙定王發

  • 長沙定王發の母唐姫はもと程姫の侍者であった。景帝が程姫を召した夜、程姫は月の障りで進めず、代わりに侍者唐兒を装わせて夜伽させたところ景帝は酔って程姫と気づかず幸し、身ごもった。生まれた子を發(気づいた驚きにちなむ)と名付けた。孝景前二年、母の身分が低く寵も薄かったため卑湿で貧しい国に封ぜられた。二十八年で薨じ子の戴王庸、二十七年で薨じ子の頃王鮒鮈が十七年で薨じ、子の刺王建徳が継いだ。宣帝の代、狩猟の失火で民家九十六戸を焼き二人を殺した罪、また内史を誣告した罪により二県を削られ中尉の官も廃された。三十四年で薨じ子の煬王旦が二年で薨じ子なく絶え、元帝初元三年に旦の弟宗が孝王として立ち五年で薨じ、子の魯人が継ぎ王莽の時に絶えた。

廣川惠王越

  • 廣川惠王越は孝景中二年に立ち十三年で薨じ、子の繆王齊が継いだ。齊には幸臣乗距がおり罪を得て逃亡、齊はその宗族を捕らえたため距は怨んで齊が同母の姉妹と姦通したと告発、以後齊はしばしば漢の公卿や幸臣を誣告し、中尉蔡彭祖を告発した際は取調べで虚偽と判明。齊は誣罔の罪で捕らえられそうになるが、匈奴征伐への従軍を願い出て許されたものの出発前に病死。有司の除国奏請は一旦認められたが、武帝は「惠王は朕の兄であり宗廟を絶やすに忍びない」と、惠王の孫の去を廣川王とした。去は繆王齊の太子であり、易・論語・孝経に通じ文辞・方技・博奕・倡優を好み、殿門に成慶(古の勇士)の画を飾り自ら七尺五寸の剣を帯びて真似た。幸姫王昭平・王地餘を経て許を后とするが、後に姫の陽成昭信を寵愛。地餘との戯れで刀を得たことから昭信と地餘を通じて王昭平を陥れ拷問、王昭平・地餘を殺害。昭信はさらに二人の従婢を絞殺し、以後も夢に殺された者が現れたことを口実に遺骨を掘り出して焼く残虐を重ねた。後に去は昭信を后とし、幸姫の陶望卿・崔脩成を夫人としたが、昭信の讒言により望卿を裸にして焼き殺し、井戸に身を投げた後も遺体を割いて杙を打ち込み鼻や唇を削ぐなど凄惨を極めた。榮愛という姫も同様に讒言され焼かれて死んだ。以後、幸を受けた姫十四人が悉く昭信に殺され太后の宮に埋められ、宮人は恐れて逆らわなくなった。昭信は諸姫の外出を禁じ後宮を封鎖、去は姫たちを憐れむ歌を作るなどしたが、実権は昭信が握った。去は少年の頃に易を師に学んだが、成長するにつれ師を疎み、内史が師を掾に用いようとしたのを機に師父子を殺害させ発覚を免れた。倡優を宮中に招き入れ淫らな戯れをした件が発覚し裁判となったが、望卿・望卿の妹都の身代わりに他の死体を用いる隠蔽が行われた。本始三年、相・内史が事の全貌を奏上し、天子は大鴻臚・丞相長史・御史丞・廷尉正らに命じて鉅鹿の詔獄で審理させ、去・后昭信の逮捕を請う。関係者は皆自白し、有司は誅殺を請うたが、武帝は「王を法に致すには忍びない」として廃位のうえ妻子と共に上庸へ移すこととし、去は道中で自殺、昭信は棄市。立って二十二年で国は除かれた。四年後、宣帝地節四年に去の兄文(正直な人物で去をしばしば諫めた)が戴王として立ち二年で薨じ、子の海陽が継ぐが十五年後、男女の裸の交わりを壁画に描き父姉妹に見せた罪や、妹の姦通・従弟らとの謀殺事件により甘露四年に廃されて房陵へ移され国は除かれた。十五年後、平帝元始二年に戴王の弟襄隄侯の子瘉が廣徳王として立ち惠王の後を奉じたが二年で薨じ、子の赤が継ぎ王莽の時に絶えた。

膠東康王寄

  • 膠東康王寄は孝景中二年に立ち二十八年で薨じた。淮南王の謀反計画をひそかに聞き知り、私に兵車・鏃矢を作って戦守の備えをしていたことが淮南事件の取調べで露見。寄は武帝にとって最も親しい間柄(母王夫人が王皇后の妹であったため)であったが、自ら傷つき発病して死去。長子賢は母に寵がなく、少子慶は母に寵があり寄はかねて慶を後継にしたいと思いつつ言い出せずにいた。武帝は寄を憐れみ賢を膠東王として康王の祀を継がせ、慶を六安王(もと衡山の地)とした。膠東王賢は十五年で薨じ哀王と諡され、子の戴王通平が二十四年で薨じ、子の頃王音が五十四年で薨じ、子の共王授が十四年で薨じ、子の殷が継ぎ王莽の時に絶えた。六安共王慶は三十八年在位で薨じ、子の夷王祿が十年で薨じ、子の繆王定が二十二年で薨じ、子の頃王光が二十七年で薨じ、子の育が継ぎ王莽の時に絶えた。

清河哀王乗

  • 清河哀王乗は孝景中三年に立ち十二年で薨じ子なく国は除かれた。

常山憲王舜

  • 常山憲王舜は孝景中五年に立った。景帝の末子で驕淫にして数々禁を犯したが景帝は寛容であった。三十三年で薨じ子の勃が継いだ。憲王には寵のない姫が生んだ長男棁がいたが、母の不寵ゆえに王からも冷遇された。王后脩は太子勃を生み、王が多くの寵姫の子(平・商ら)を愛する一方、王后は次第に寵を失った。憲王の病が重くなると寵姫たちが侍病する一方、王后は嫉妬から常に病床に付き添わず、太子勃も薬を自ら舐めず宿直も怠った。王薨後、王后・太子はようやく駆けつけ、憲王がかねて棁を子として数えなかったため財物も分与しなかった。ある郎官が太子・王后に分与を勧めても聞き入れられず、太子は代立後も棁を顧みなかったため、棁は王后・太子を怨み、憲王の喪中の不行き届きを漢の使者に訴えた。さらに太子勃は喪中六日で外に出て私かに姦淫・飲酒・博戯・撃筑にふけり、女と車で都を巡り市を横切り獄を覗くなどした。天子は大行騫(張騫)に調べさせたが王は証人を匿い、吏が捕らえに来ると人を使って打擲させ勾留中の罪人を勝手に釈放させるなどした。有司は勃と王后脩の誅殺を請うたが、武帝は「脩は素行が悪く棁に付け込まれた。勃には良い師傅がおらず誅すには忍びない」として廃位・房陵移住とした。勃は王位数ヶ月で廃され国は除かれ、天子は最も近しい親族への配慮から「常山憲王は早くに亡くなり、后妾の不和や嫡庶の争いにより国を滅ぼすに至ったのは痛ましい」として、憲王の子平を真定王(三万戸)、子商を泗水王(三万戸)に封じた。真定の頃王平は二十五年で薨じ子の烈王偃が十八年で薨じ、子の孝王由が二十二年で薨じ、子の安王雍が二十六年で薨じ、子の共王普が十五年で薨じ、子の陽が継ぎ王莽の時に絶えた。泗水の思王商は十二年で薨じ子の哀王安世が十一年で薨じ子なく、武帝は泗水王の絶えるのを憐れみ安世の弟賀を戴王として立て二十二年で薨じ、遺腹子煖があったが相・内史が上奏を怠ったため太后が上書し、昭帝はこれを憐れんで相・内史を処罰、煖を勤王として立てた。三十九年で薨じ子の戾王駿が三十一年で薨じ、子の靖が継ぎ王莽の時に絶えた。

史論

  • 賛:昔、魯の哀公は「私は深宮に生まれ婦人の手に育てられ、憂いも恐れも知らずに来た」と孔子に語ったが、まさに真実の言葉である。危亡を望まずとも避けられまい。だから古人は安逸を鴆毒(毒酒)に等しいとし、徳なくして富貴を得ることを不幸と呼んだ。漢が興ってより孝平帝に至るまで、諸侯王は百を数えたが多くが驕淫にして道を失った。放埓に溺れたのは、その置かれた勢いがそうさせたのである。凡人ですら習俗に流されやすいのだから、まして魯の哀公のような者は言うまでもない。ただ大雅にして卓絶し群を抜いていたのは、河間獻王に近いといえよう。