漢書卷五十三 景十三王傳第二十三 趙敬肅王彭祖

趙敬肅王彭祖は景帝の子。表向き恭順を装いつつ内心は苛烈で法律を好み、赴任した相・二千石をしばしば陥れて六十余年在位した。太子丹の姦通事件など身内の不祥事にも見舞われた。

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趙敬肅王彭祖

  • 趙敬肅王彭祖は孝景前二年に廣川王として立ち、趙王遂の乱後に趙王として移封された。巧佞で表向き恭順を装いつつ内心は苛烈で法律を好み、詭弁で人を陥れた。多くの寵姫・子孫を抱え、相・二千石が漢の法を奉じて治めようとすると疑事を仕掛けて言質を取り、それを口実に脅して従わせなかった。在位六十余年で二千石の相が二年も務まった例がなく、多くが罪により死罪や刑罰を受けた。趙王は諸県で商人の売買を独占し、租税以上の利を得て金銭を蓄えたが、姫や子への賜与で使い尽くした。宮室や祥瑞の類は好まなかったが、役人の真似を好み盗賊の取り締まりを自ら行い、邯鄲の街を夜回りしたため、使者・行客は彭祖の険悪さを恐れて邯鄲に長居しなかった。太子丹が妹や同母姉と姦通し、江充がこれを告発、椎埋(人を殺して埋める)や強盗まがいの行為も多く発覚。武帝は使者を送り丹を捕らえ魏郡の詔獄で処罰、死罪となる。彭祖は上書して丹の助命と匈奴征伐での贖罪を願うが許されず、後に赦された。彭祖は帝の姉平陽・隆慮公主を通じて丹の太子復位を願うが許されなかった。彭祖は江都易王建の寵姫であった淖姫を娶り、その子淖子を寵愛。彭祖は征和元年に薨じ敬肅王と諡された。淖姫の兄が宦者であったため武帝が淖子の人柄を問うと「欲が多い」と答えられ、武始侯昌については「無咎無誉」と答えられたため、昌を頃王として立てた。頃王は十九年で薨じ子の懐王尊、五年で薨じ子なく二年絶えた後、宣帝が尊の弟高を哀王として立て数ヶ月で薨じ、子の共王充、五十六年で薨じ子の隠が継ぎ王莽の時に絶えた。また武帝は敬肅王の末子偃を平于王(頃王)として立て十一年で薨じ、子の繆王元が継ぐが二十五年で薨じた際、大鴻臚禹が「元は刃で奴婢や子を殺し、謁者殺害を諫めた刺史を陥れ、遺言で殉死を強要するなど十六人を死に至らしめた暴虐がある。春秋の義では、君を誅した者の子は立てるべきでない」と奏し、元は誅されずとも嗣立を許されず国は除かれた。