漢書卷五十四 李廣蘇建傳第二十四 李廣
隴西成紀の人。秦の将李信の末裔で、代々弓術を伝えた家の出。文帝・景帝・武帝の三代に仕え、右北平などの太守として匈奴に恐れられ「漢の飛将軍」と呼ばれた名将。人望篤く兵に慕われたが、生涯戦功に見合う封侯を得られぬまま、元狩四年の匈奴遠征で道に迷った責を負い自刃した。
出自と初陣
- 李廣、隴西成紀の人。先祖は秦の将で燕太子丹を捕らえた李信。李家は代々弓術を伝えた。孝文十四年、匈奴が蕭関に大挙侵入した際、良家の子として従軍し弓の巧みさで多くの首級をあげ郎・騎常侍となった。射猟でも猛獣を仕留め、文帝は「惜しい、時を得ぬ男よ。高祖の世であれば万戸侯であったろうに」と評した。景帝即位で騎郎将、呉楚の乱では驍騎都尉として太尉亜夫に従い昌邑で戦功を挙げるが、梁王から将軍印を私に受けた咎で朝廷からの恩賞は行われなかった。
辺郡太守としての武名
- 上谷太守として匈奴と度々戦い、典属国公孫昆邪が「李広の材気は天下無双だが、自負が強く匈奴と競り合いすぎて命を落とさぬか心配だ」と武帝に泣訴したため、上郡太守に移された。匈奴が上郡に侵入した際、上から遣わされた中貴人の従者が匈奴三騎と戦い傷ついたのを見た李広は「あれは射鵰の名手に違いない」と百騎を率いて追跡、二人を射殺し一人を生け捕る。その後、数千の匈奴騎兵に遭遇するが、退けば追撃されると悟り、あえて陣を敷かず馬の鞍を外して伏兵と思わせ、夜には匈奴軍が伏兵を恐れて退いた。以後、隴西・北地・鴈門・雲中の太守を歴任。武帝即位後、未央衛尉となり、長楽衛尉であった程不識と対比された。李広は軍規や陣立てに拘らず水草のよい所で自由に休息させ夜警の刁斗も打たせず幕府の文書も簡略にしたが、遠くまで斥候を出して害に遭ったことはなかった。程不識は軍規厳格で兵は苦しんだが、匈奴はいずれも恐れ、兵は李広を慕い程不識を苦しがった。
馬邑の役と鴈門での敗戦
- 程不識は文法に厳格な人柄で、後に漢が馬邑に単于を誘い込む策を用いた際、李広は驍騎将軍として護軍将軍韓安国に属したが単于が察知し漢軍は無功に終わった。四年後、李広は衛尉として鴈門から匈奴を撃つが敗れ生け捕られた。単于はかねて李広の賢を聞き「生きたまま連れて来い」と命じ、傷ついた李広は二頭の馬の間に絡めて運ばれる途中、死んだふりをして隙をつき、少年の馬を奪って南へ疾駆、途中で弓を奪い追手を射殺しつつ脱出した。漢に戻ると軍の損失を問われ死罪に当たるが贖罪して庶人となり、数年間、潁陰侯の子孫と共に藍田南山で狩猟して過ごした。ある夜、供一人を連れて外出した際、酔った霸陵の亭尉に呵責され宿泊を余儀なくされる屈辱を受けた。
右北平太守と「漢の飛将軍」
- 匈奴が遼西に侵入し太守を殺し、右北平守備の韓安国も戦死したため、武帝は李広を右北平太守に起用。李広はかつて自分を辱めた霸陵尉を軍に同行させ斬殺、上書して謝罪すると、武帝は「将軍は国の爪牙である」として不問とし、右北平への赴任を促した。李広はこの地で匈奴から「漢の飛将軍」と呼ばれ恐れられ、数年間侵入を許さなかった。狩猟中に草むらの石を虎と見誤って射ると矢が石に突き刺さり、後で射ても入らなかったという逸話も伝わる。石建の死後、郎中令に。元朔六年、大将軍衛青に従い定襄から出撃するが功なく、三年後、郎中令として四千騎を率い右北平から出撃、博望侯張騫の万騎とは別道であったところ匈奴左賢王の四万騎に包囲された。子の李敢が数十騎で敵陣を突破し、軍の動揺を鎮める。矢が尽きるまで持久戦を続け、大黄弩で敵の裨将を射殺すなどして匈奴を退けた。博望侯は後期の罪で贖罪され庶人となり、李広は功過相当として賞なしとされた。
封侯を得られぬ悲運
- 従弟の李蔡は文帝・景帝から仕え、元朔中に軽車将軍として右賢王討伐で功を立て樂安侯となり丞相にまで昇るが、その人物評は「中の下」で名声は李広に遠く及ばなかった。李広は爵邑を得られず官も九卿止まりで、その軍吏や兵卒でさえ封侯を得る者があった。李広は望気家の王朔に「自分は匈奴征伐に必ず加わったのに軍功で列侯となった者が数十人いるのに、自分だけ尺寸の功も認められないのはなぜか、相が悪いのか」と問うと、王朔は「後悔したことは」と聞き返し、李広は「隴西太守時代、投降した羌八百余人を騙して同日に皆殺しにした。それが唯一の悔いだ」と答えた。王朔は「降伏した者を殺すより大きな禍はない。それが将軍が侯になれない理由だ」と述べた。李広は七郡の太守を四十余年務め、賞賜は部下に分け与え、飲食も士卒と共にし、家に余財なく生涯生業を語らなかった。長身で猿のように腕が長く、天性の弓の名手として子孫や他人が学んでも及ばなかった。口下手で人と居れば地面に陣形を描いて的の遠近を競う遊びをした。行軍中は水を得ても全兵士が飲むまで自分は飲まず、食料も同様であった。寛容で細かいことに拘らなかったため兵は喜んで彼のために働いた。的が数十歩の距離に入らねば射ず、射れば必ず命中させたため、しばしば猛獣に手傷を負わされることもあった。
最後の遠征と自刃
- 元狩四年、大将軍・驃騎将軍が匈奴を大攻撃する際、李広は自ら出撃を願い出て老齢を理由に許されなかったが、ようやく前将軍として認められた。大将軍衛青は単于の所在を知り自ら精兵で追おうとし、李広は右将軍の軍に合流させられ東道(遠回りで水草に乏しい道)を進むよう命じられた。李広は「自分は前将軍であるのに東道に回されるのは心外だ、若い頃から匈奴と戦い今回こそ単于と当たりたい」と抗議したが、衛青は密かに武帝から「李広は数奇(運がない)」との指示を受けており、公孫敖を単于との対戦に当たらせたい思惑もあって聞き入れなかった。李広はやむなく従軍するが道に迷い、大将軍が単于と交戦し逃した後に合流。衛青が長史を通じ食其(右将軍趙食其)と共に道に迷った経緯を問い質すと、李広は「諸校尉に罪はない、私が道を誤った、自ら上奏する」と答え、幕府に戻って部下に「私は結髪以来匈奴と七十余戦してきたが、今回大将軍に従い単于との決戦を望んだのに東道に回され道にも迷った。天の配剤か。歳六十余、今さら刀筆の吏の尋問には耐えられぬ」と述べ、自ら首を刎ねて死んだ。百姓は知る人も知らぬ人も皆涙した。右将軍食其は下獄の末、贖罪して庶人となった。李広には当戸・椒・敢の三子があり、皆郎であった。当戸は上と韓嫣が戯れた際に不遜な韓嫣を殴った気概があったが早世し、椒が代郡太守となるが共に李広に先立って死んだ。
李敢
- 李広死去の翌年、従弟の李蔡は丞相として詔で賜った冢地を不正に売買した罪で自殺。李敢は驃騎将軍霍去病に従い匈奴左賢王の旗鼓を奪う功を立て関内侯・食邑二百戸を賜り李広に代わり郎中令となった。父の死を大将軍衛青の咎として恨み衛青を傷つけたが青はこれを隠した。後に驃騎将軍霍去病が父の代わりに敢を恨み、上林での狩猟中に射殺し、武帝は霍去病を憚って「鹿に触れて死んだ」と発表した。李敢の娘は太子中人として愛され、子の禹は太子に寵されたが利を好み勇を恃んで人を侵し、後に禹の縁者が「太子劉陵と共に逃亡を謀った」と告発され、禹は獄死した。