漢書卷四十七 文三王傳第十七 梁孝王武
梁孝王武。文帝の子で竇皇后を母とし、景帝の同母弟。呉楚七国の乱では雎陽を死守して乱鎮圧に大功を挙げ、以後最も帝に近い親族として大国を得て権勢は際限がなかった。景帝の後継に望まれたが群臣の反対で潰え、これを恨んで大臣暗殺を企てたことで武帝の疑念を招き、悶々のうちに病を得て薨じた。
勢威の拡大
- 孝文帝には四人の男子があり、竇皇后が景帝と梁孝王武を生み、他の姫が代孝王参・梁懐王揖を生んだ。武は文帝二年に代王、四年に淮陽王、十二年に梁王に遷された。
- 呉楚七国の乱では梁は先鋒として棘壁で数万を殺されたが、雎陽城を固守し韓安国・張羽らを将として応戦、呉楚軍は梁を越えられず、周亜夫と対峙する呉楚軍の背後を脅かして乱の鎮圧に大功があった。
- 乱後、梁王は最も帝に近い親族として大国(膏腴の地・四十余城)を得て、太后(竇太后)に溺愛され、その富は際限がなかった。東苑(三百余里)を築き、雎陽の城を七十里に拡張し、宮室・復道を建て、天子の旌旗を賜り出入りに警蹕(皇帝並みの儀仗)を行った。羊勝・公孫詭・鄒陽ら山東の游士を厚遇し、兵器・財宝も京師を凌ぐほど蓄えた。
- 景帝との宴席で「千秋万歳の後は王に位を伝える」との戯言があり、太后も内心これを喜んだ。太后は栗太子廃立後、梁王を後継に望んだが群臣の反対で沙汰止みとなった。
- 梁王はこれを恨み、羊勝・公孫詭に命じて廷議に反対した大臣・爰盎ら十余人を暗殺させた。事件発覚後、羊勝・公孫詭は自殺に追い込まれ、梁王は釈明のため入朝したが、天子の疑念は解けず、その後は疎遠になった。
- 三十五年冬、梁王は再び入朝したが留任を許されず、悶々として帰国し、その後病を得て六日で薨じた。竇太后は「帝が我が子を殺した」と嘆き悲しみ、景帝は憂慮して梁を五国に分割し、孝王の五男を王、五女を食邑を持つ主に封じてようやく太后の怒りを解いた。
- 孝王の死後、府庫には黄金四十余万斤余、他の財物も同等の規模が残されていたという。