漢書卷四十六 萬石衞直周張傳第十六 萬石君石奮

石奮(万石君)。趙人の子で温に移住し、十五歳で高祖に小吏として仕え、その恭敬さを愛された。文帝の代に大中大夫、景帝の代には九卿を経て諸侯の相を歴任。四人の子もみな二千石に至り恭謹の家風で知られ、景帝から「万石君」と称された。子孫は厳格な礼を守り通し、子の慶は丞相にまで至った。

年表(3件)
  • 建元二年郎中令王臧が皇太后の怒りを買った際、長子建が郎中令、少子慶が内史に任じられる
  • 元朔五年石奮(万石君)が死去。子の建も哀しみのあまり一年余りで没す
  • 元鼎五年子の慶が丞相・牧丘侯となる

一門の恭謹

  • 石奮の父は趙人で、趙滅亡後に温に移った。高祖が項籍を撃つため河内を通過した際、十五歳の石奮は小吏として仕え、その恭敬な態度を高祖に愛された。姉が瑟をよくすると聞き美人として召し、石奮は中涓(書謁を受ける役)とされ、一家は長安の戚里に移された。
  • 石奮は功労を積み孝文帝の時大中大夫に至り、文学の才はないが恭謹さで並ぶ者がなかった。太子太傅に推され、景帝の時九卿となった後、諸侯の相に転じた。
  • 四人の子(建・甲・乙・慶)も皆馴行孝謹で二千石に至り、景帝は「石君と四子で万石」と讃え、「万石君」と号した。
  • 万石君は上大夫の禄を得て致仕した後も、宮門を通る際には必ず車を降り、路馬(天子の車馬)にも敬礼した。子孫の小吏が帰参する際は必ず朝服で会い、過失があっても叱らず食事を控えて反省を促す(子孫が肉袒して謝罪するまで)という厳格な家風を貫いた。
  • 子孫は皆この家風を受け継ぎ、斉魯の儒者でさえその質実な行いに及ばないと自認したという。
  • 建元二年、郎中令王臧が儒学のことで皇太后(竇太后)の怒りを買った際、太后は「儒者は文が多く質が少ない、万石君の家は言わずして実践する」として長子建を郎中令、少子慶を内史に任じた。
  • 建は老いてなお五日ごとの休暇で親の下着を自ら洗うほどの孝行を貫き、上奏の際は人払いをして切実に諫言するが、朝廷では控えめに振る舞った。
  • 内史慶が酔って車を降りずに門を通った件で万石君が食を断って叱責し、一族総出で謝罪させた逸話が伝わる。万石君は元朔五年に没し、建も哀しみのあまり一年余りで没した。
  • 慶は太僕として車を御した際、馬の数を尋ねられ策で数えてから答えるほど慎重で、兄弟の中では最も気楽な性格とされた。斉の相となった際、統治せずして斉国が治まったといわれ、後に太子太傅、御史大夫を経て、元鼎五年、丞相趙周が酎金の罪で免ぜられると丞相・牧丘侯となった。
  • 慶は在職九年、匡言する所なく、流民問題で対応を誤り上書して謝罪、丞相を辞めようとしたが、武帝の詔で「反省して務めよ」と命じられ、再び政務に復した。その後三年余りで薨じ、諡は恬侯。
  • 慶の死後、一族の孝謹さは次第に衰えたという。