讒言と末路
- 息夫躬は河内郡河陽の人。壮麗な容貌で知られ、哀帝の初め皇后の父傅晏と親交を結び、孫寵とも結んで栄達を図った。
- 無塩県で石が自然に立った奇瑞を利用し、東平王雲とその后が祝詛を行っている、后の舅伍宏が医術で禁中に出入りし謀を企てているなどと密告。事件は誅殺という結果を招いたが、その功で息夫躬は宜陵侯に封じられた。
- 丞相王嘉は息夫躬・孫寵らを「傾覆の材で佞邪」と評し重用に反対したため罪を得た。息夫躬は公卿を歴詆する上疏を行い、辺境の危機を誇張して軍備強化を説いた。
- 単于の来朝延期を口実に、烏孫との対立や匈奴の反乱可能性を煽り、偽の使者による離間策を献策したが、左将軍公孫禄は「中国は威信で夷狄を懐柔してきた、偽計は許されない」と反対。武帝(哀帝)は息夫躬の説を採ったが、丞相王嘉は「妄言による軍事煽動は天への欺きに等しい」と諫めた。
- 董賢の寵愛が篤くなると、息夫躬・孫寵の策謀は疎まれ、免官となり封国に帰された。土地の者に財産を狙われ、祝詛の術で盗難よけを行ったことが「天子を呪詛した」と告発され、雒陽の獄で尋問中に急死した(自ら死を選んだとも伝わる)。
- 母聖は竈を祀り上を呪詛したとして棄市、妻子は合浦に流された。哀帝の崩後、関係者はさらに処分され合浦へ移された。
- 息夫躬は生前、危言高論の末に禍を恐れ「絶命辞」を著していた。その辞は、讒言に阻まれ君に見捨てられる悲しみを、鷹隼・虹蜺・叢棘などの比喩で綴ったものである。
史論
- 賛にいう。孔子は巧言が国家を覆すことを憎んだ。蒯通の一説は酈食其・田横・韓信の三雋を喪わせたが、自身が誅を免れたのは幸運というべきである。伍被は危うい国に安んじ謀主となりながら忠を全うできず不実な策を進めた末に誅を受けた、当然のことである。
- 『書』に四罪(共工・驩兠・三苗・鯀)を放逐したことが記され、『詩』は青蠅の讒を歌う。春秋以来、子翬が桓公を謀り魯隠公を危うくし、欒書が郤氏を陥れ晋厲公を弑し、豎牛が叔孫を陥れ、郈伯が季氏を讒言し昭公を追い、費忌が女を進めて楚建を走らせ、宰嚭が伍子胥を讒言して夫差を滅ぼし、李園が妹を進めて春秋君を斃し、上官が屈平を讒して懐王を捕らえられ、趙高が李斯を陥れ二世を縊死させ、伊戾が盟を偽り宋の痤を死なせた故事が続く。江充は蠱を作って太子を殺し、息夫躬は姦を為して東平王を誅させた。皆疎遠な者が近しい者を陥れたものであり、恐るべきことである。