漢書卷四十三 酈陸朱劉叔孫傳第十三 酈食其

酈食其、陳留郡高陽の人。貧しい門番から儒者として劉邦に説き、陳留を降して広野君と号した。斉王田広を説いて漢に帰順させたが、韓信の奇襲によって裏切られたと誤解した田広に煮殺された。死後、その功により子が高梁侯に封じられた。

年表(2件)
  • 漢三年敖倉の糧秣確保・成臯防衛を進言し、劉邦に用いられる
  • 漢十二年功により子の疥が高梁侯に封じられる

出自と説客としての活躍

  • 酈食其は陳留郡高陽の人。読書を好んだが家は貧しく、里の門番として暮らした。県中の賢者・豪傑も彼を軽々しく使役できず、皆「狂生」と呼んだ。
  • 陳勝・項梁らが挙兵し諸将が高陽を通過したが、酈食其は彼らが度量に欠けると見て身を隠していた。沛公(劉邦)配下の騎士が郷里の者だったので、沛公の人物を尋ね、「儒者を嫌う」と聞いて訪問の仕方を工夫した。
  • 沛公は最初、儒冠の客を侮辱していたが、酈食其が「秦を助けるのか諸侯を助けるのか」と正面から問うと、沛公は洗足をやめて衣を整え、上座に迎えて謝った。
  • 酈食其は六国合従連衡の情勢を説き、沛公に喜ばれた。陳留は交通の要衝で食糧も豊富、県令とも旧知であると説き、内応して陳留を降させた。これにより広野君と号した。
  • 弟の酈商は数千の兵を率いて沛公に従い西南を平定した。
  • 漢三年、項羽が滎陽を攻め漢軍が鞏に退いたとき、酈食其は敖倉の糧秣を確保し成臯の険を固め太行の道を塞ぎ飛狐の口を扼し白馬の津を守るよう進言し、劉邦はこれに従った。
  • さらに斉王田広を説き、漢に帰順すれば斉の社稷は保てると論じた。その論拠は、項羽が約束を破り義帝を殺した罪、賞罰の吝嗇、人心の離反に対し、漢王は蜀漢から起こって関中を定め、天下の心を得ていることだった。田広はこれに従い守備を解いた。
  • しかし韓信は酈食其がわずかな弁舌で斉の七十余城を下したことに不満を抱き、平原から斉を奇襲した。田広は酈食其に欺かれたと思い、これを烹殺した。
  • 漢十二年、酈商の功により高祖は酈食其を偲び、その子疥を高梁侯に封じた。子孫は三代continued、平の代で罪により国除となった。