漢書卷四十二 張周趙任申屠傳第十二 申屠嘉
剛直な丞相
- 申屠嘉は梁の人。強弩を足で踏み張る材官(蹶張)として高帝に従い項籍・黥布討伐に従軍、淮陽守を経て文帝の代に旧功臣として関内侯に封じられ、張蒼が丞相を退いた後、皇后の弟竇広国を私情で登用することを避けた文帝により御史大夫から丞相に抜擢され、故安侯に封じられた。
- 廉直で私的な謁見を受けなかった申屠嘉は、文帝の寵臣鄧通が朝廷で怠慢な態度を見せたことを咎め、檄文で鄧通を丞相府に召し出し、免冠・徒跣・叩頭して謝罪する鄧通を意に介さず「朝廷は高皇帝の朝廷、殿上での戯れは大不敬、斬に処すべき所」と厳しく詰問した。文帝が使者を送って取りなし「これは私の弄び者、丞相はお赦しを」と伝えて初めて鄧通を解放したという逸話が伝わる。
- 景帝の代、内史晁錯が法令を頻繁に改め諸侯を侵削する策を進めたことに反発した申屠嘉は、晁錯が宗廟の垣を無断で穿った罪を挙げて誅殺を上奏しようとしたが、事前に発覚した晁錯が景帝に直訴し、景帝は「穿ったのは外側の空き地、私が命じたこと、晁錯に罪はない」として不問に付した。計略を先に上奏してしまったことを悔いた申屠嘉は帰邸後に血を吐いて死去、節侯と諡された。以後、開封侯陶青・桃侯劉舎・柏至侯許昌・平棘侯薛沢・武彊侯荘青翟・商陵侯趙周ら列侯出身者が相次いで丞相となったが、いずれも謹厳なだけで際立った功名を残さなかった。
史論
- 賛にいう。張蒼は律暦に通じた名相と称されながら、なぜ秦の顓頊暦をそのまま踏襲したのか、経典を考証せず旧制に依った点は疑問が残る。周昌は木石のように質朴剛直な人物であった。任敖は呂后への旧恩により用いられた。申屠嘉は剛毅で節を守った人物とはいえ、学識・術策の面では蕭何・曹参・陳平らには及ばなかったと言えよう。
(以上、巻末の「前漢書卷四十二考證」は四庫館臣による校勘記のため訳出対象外とする。)