剛直の御史大夫
- 周昌は沛の人。従兄の周苛と共に秦代の泗水郡卒史から高祖に従った。苛は御史大夫として滎陽籠城を任され、楚軍に降伏を迫られても「早く降れ、さもなくば虜になるぞ」と罵り、項羽の怒りを買って煮殺された。昌はその後を継いで御史大夫となり項籍討伐に従軍、汾陰侯に封じられた。
- 昌は剛直な人柄で、高帝が戚姫を抱いていた場に踏み込んで叱責するなど臆せず諫言し、太子廃立を巡る争いでも吃音をものともせず「陛下が太子を廃されるなら、私は――私は詔に従いません」と激しく諫めて高帝を苦笑させ、これを盗み聞きした呂后は昌に跪いて感謝したという。
- 高帝は戚夫人の子趙王如意の将来を案じ、趙堯の進言により剛直な昌を趙相に転じさせて如意を守らせた。昌は「初めから陛下に従ってきた私を、なぜ諸侯の相などに追いやるのか」と涙したが、結局は赴任した。高祖崩御後、呂太后が趙王を召そうとした際、昌は「高帝から趙王を託された、太后が戚夫人を怨んで王を誅そうとしていると聞く以上、王を行かせられない」と三度使者を退けたが、太后は昌自身を召し出して詰り、その隙に趙王を召して鴆殺した。昌は病と称して以後朝見せず、三年後に薨じ悼侯と諡された。