漢書卷四十二 張周趙任申屠傳第十二 張蒼

張蒼、陽武の人。書と律暦を好み秦の柱下御史を務めた後、沛公に従い北平侯に封じられた。御史大夫を経て丞相となり、秦の暦法を継承しつつ漢の律暦・音律・度量衡の制度の基礎を築いた。後に改暦論争で面目を失い引退した。

年表(2件)
  • 文帝
  • 四年灌嬰に代わって丞相となる
  • 景帝
  • 五年死去、文侯と諡される

律暦を定めた丞相

  • 張蒼は陽武の人。書と律暦を好み、秦代には柱下御史として四方の文書を司った。罪を得て逃亡していたが、沛公が陽武を通過した際に従軍し斬刑に処されそうになった。処刑台で身を晒した際、その堂々たる体躯に目を留めた王陵の取りなしで赦され、以後常山守・代相・趙相を歴任、燕王臧荼討伐の功で北平侯に封じられた。
  • 蒼は秦代からの図書計籍の知識と算術・律暦の才を買われ、計相(のち主計)として郡国の会計を統括、淮南王の相を経て御史大夫に昇った。文帝四年、灌嬰に代わって丞相となった。漢初、公卿の多くが軍吏出身で制度が未整備であった中、蒼は高祖が十月に覇上に至った故事にちなみ秦の暦法(十月歳首)を継承し、漢は水徳に当たるとして黒を尊ぶ制を定め、音律を調べて楽・度量衡の基準を確立するなど、漢の律暦制度の基礎を築いた。
  • 蒼は命の恩人である安国侯王陵に厚く報い、陵の死後も沐浴のたびにまず陵の夫人に朝見してから帰宅するほどであった。丞相在任十余年、魯人公孫臣が「漢は土徳に当たり黄龍の瑞兆がある」と改暦を上書した際、蒼はこれを退けたが、後に黄龍が実際に出現すると文帝は公孫臣を用い蒼の面目は潰れ、以後病と称して引退した。推挙した人物が不正を働いた責も問われ罷免、景帝五年に薨じ文侯と諡された。百余歳まで生きたが、歯を失い乳を吸って過ごしたという逸話が伝わる。陰陽律暦を論じた著書十八篇を残した。