漢書卷四十一 樊酈滕灌傅靳周傳第十一
樊噲――屠犬の徒から左丞相へ
- 樊噲は沛の人で犬を屠って生業とし、高祖と共に芒碭山に隠れていた。陳勝の挙兵後、蕭何・曹参の命で高祖を迎えに行き、沛公擁立を助けた。以後、胡陵・方与・薛・濮陽・户牖など各地の攻略に従い斬首・捕虜の数を重ねて次々に爵を進め、鴻門の会では沛公の危機に際し盾を手に単身宴席へ乱入、項羽に「壮士」と称賛されつつ「先に咸陽を平定しながら覇上で大王を待った沛公を疑うのは天下の心を離れさせる」と諫言し、沛公脱出の一助となった。
- 漢王即位後は列侯・臨武侯に封じられ、三秦平定・楚漢戦争を通じて数々の戦功を重ね、臧荼・韓信(楚王)・韓王信・陳豨・盧綰の反乱鎮圧にも従軍して舞陽侯に封じられた。呂后の妹呂嬃を妻とし外戚として最も高祖に近しい立場にあった。
- 高帝が病を理由に群臣との面会を絶っていた際、噲は宮門を押し破って直入し「陛下と共に豊沛で天下を定めた頃の壮気はどこへ行ったのか、趙高の故事を忘れたのか」と諫め、高帝はこれに笑って起き上がったという。しかし盧綰討伐に赴いた際、噲が呂氏に与して高帝崩御後に戚夫人・趙王如意を誅殺しようとしているとの讒言があり、激怒した高帝は陳平・周勃に軍中での斬殺を命じたが、陳平は呂后を恐れて噲を檻車で長安に護送するに留め、着く頃には高帝は既に崩御しており、噲は赦されて爵位を回復した。孝恵六年に薨じ武侯と諡された。子孫は呂氏誅滅の際に一時連座して国を絶たれたが、文帝の代に復封され、平帝の代まで血脈が保たれた。
酈商――酈食其の弟
- 酈商は高陽の人(酈食其の弟)。陳勝の挙兵に応じて少年数千人を集め、沛公に合流して各地を転戦、隴西都尉・北地郡平定などの功を重ねて信成君・列侯に封じられた。項羽との戦い、臧荼・陳豨・黥布の討伐にも従軍し曲周侯となった。
- 呂后の代、子の酈寄は呂禄と親しく、大臣たちが呂氏誅滅を図った際、酈寄が呂禄を欺いて外に連れ出し、その隙に太尉周勃が北軍を掌握することができた。この一件は「酈況(酈寄)、友を売る」として世に非難されたが、実際には周勃らに父商を人質に取られて説得を強いられた事情があった。
夏侯嬰――高祖の御者として
- 夏侯嬰は沛の厩司御で、高祖とは古くからの親友。高祖が戯れて嬰を傷つけた際、嬰を庇って偽証したことで自らが罰せられるほどの間柄であった。沛公擁立後は太僕として常に車を御し、各地の戦で兵車を疾駆させて戦功を重ねた。彭城の敗戦で漢王が孝恵帝・魯元公主を乗せて逃げる際、漢王が幾度も二人の子を車から突き落とそうとしたのを、嬰がその都度拾い上げて守り抜いた逸話が伝わる。
- 平城の包囲でも高帝の脱出を助け、恵帝・高后の代も太僕として仕え続け、文帝擁立にも関わった。八年後に薨じ文侯と諡された。曽孫の代に不祥事で国は除かれた。
灌嬰――繒売りから丞相へ
- 灌嬰は睢陽の絹商人であった。沛公の挙兵に中涓として従い、各地の戦で戦功を重ねて執帛・執圭の号を得た。漢王即位後は騎兵の将として重用され、韓信の斉平定戦にも従軍して田横の追撃、龍且との戦いなどで功を立てた。項羽最期の東城での追撃戦では、灌嬰配下の五人がともに項籍を斬る功を立てた。
- 高帝即位後も臧荼・韓王信・陳豨・黥布の討伐に従軍し潁陰侯となった。呂后崩御後、諸呂が乱を図ると、灌嬰は大将軍として斉王討伐に向かうよう命じられたが、周勃らと謀り滎陽に留まって斉王に呂氏討伐を諷し、乱後は周勃・陳平と共に文帝擁立に加わった。丞相にまで昇り懿侯と諡された。
傅寛――魏出身の騎将
- 傅寛は魏の五大夫の身分から騎将として沛公の陣営に加わり、各地の攻略に従軍、三秦平定・楚漢戦争を経て陽陵侯に封じられた。斉の平定後は右丞相として斉に駐屯し、田横の抵抗に備えた。陳豨討伐にも従軍し、最終的に丞相・代の相国を歴任、景侯と諡された。
靳歙――騎都尉としての転戦
- 靳歙は中涓として沛公に従い、各地で騎兵・車馬を率いて戦功を重ね、隴西六県の平定、趙・代の攻略などに従軍して信武侯となった。江陵の平定では臨江王共尉を捕らえて洛陽に送る功を立てた。陳豨・黥布の討伐にも従軍し、高后五年に薨じ肅侯と諡された。
周緤――忠信の臣
- 周緤は沛の人で舎人として高祖に従い、参乗として各地を転戦、離反することなく忠誠を尽くしたため「信武侯」の号を賜った。高帝が自ら陳豨討伐に赴こうとした際、涙ながらに「秦が天下を破った時ですら自ら出陣しなかった、今それをするのは人材がいないということか」と諫め、その忠愛を喜んだ高帝から殿門を趨らずに入れる特権を与えられた。のちに扶柳侯に改封され貞侯と諡された。
史論
- 賛にいう。孔子は「まだら牛の子でも赤く角が立派なら、たとえ供物に用いまいとしても山川の神がそれを見捨てるだろうか」と述べた(父の出自が卑しくとも子の美質は損なわれないの意)。士は出自の身分に縛られないということである。樊噲・夏侯嬰・灌嬰らは、犬を屠り、車を御し、絹を売る身分であった頃、まさか驥尾に付いて帝籍に功を刻み子孫にまで栄華が及ぶとは思いもしなかったであろう。孝文帝の代、世は酈寄を「友を売った」と非難したが、その父が功臣でありながら大臣たちに人質同然に取られ説得を強いられた事情を思えば、呂禄を欺いて社稷を安んじたこの行いは、君と親への義を尽くしたものとして許されよう。
(以上、巻末の「前漢書卷四十一考證」は四庫館臣による校勘記のため訳出対象外とする。)