漢書卷四十 張陳王周傳第十
張良――出自と博浪沙の狙撃
- 張良、字は子房。祖父開地・父平は五代にわたり韓の相を務めた家柄。韓が秦に滅ぼされた時まだ出仕前であった良は、弟の葬儀も後回しにして家財を投じ刺客を求め、韓の仇討ちを図った。淮陽で礼を学んだ折に得た力士に百二十斤の鉄槌を持たせ、東遊中の始皇帝を博浪沙で狙撃したが誤って副車に当たり失敗、大掛かりな捜索を逃れて下邳に姓名を変えて隠れた。
黄石公の授書と沛公との出会い
- 下邳の橋の上で出会った老父に沓を拾わせられ、履かせよと命じられても堪えて従った良は、老父から「五日後の早朝にここで会おう」と告げられ、二度の遅刻を叱られた末、三度目に夜半から待って先んじると、老父は喜んで一編の書を授け「これを読めば王者の師となれる、十年後に興り、十三年後に済北の穀城山下で黄石に会うだろう」と告げて去った。その書は太公兵法であった。以後、良はこれを常に誦習した。
- 陳勝の挙兵後、良も少年百余人を集めて呼応し、沛公の軍に合流して厩将となった。太公兵法を説いても他の誰も理解しなかったが、沛公だけはその策を用いたため、良は「沛公はほとんど天授の人だ」として従い続けた。
韓の再興工作と沛公への献策
- 項梁に韓の公子横陽君成を韓王に立てるよう説き、自ら韓の司徒として韓の地の平定に従事した。沛公が武関を攻める際、正面攻撃を避け敵将を懐柔しつつ油断を突く策を献じて函谷関以西を平定、咸陽入城後は秦の財宝・美女に留まろうとする沛公を「今こそ質素を旨とすべき、忠言は耳に逆らうが行いに利する」と諫めて覇上に撤退させた。
- 鴻門の会に先立ち、旧知の項伯が急を告げに来た際、良は沛公に事の次第を伝え、項伯を通じて弁明させることで危機を回避した(詳細は項羽伝)。漢王が漢中に封じられると、良は項伯への贈賄を働きかけて漢中の地を確保させ、さらに漢王の入国後、棧道を焼き払って東帰の意志なきことを示す策を献じ、自らは韓王成のもとへ帰った。
楚漢戦争の参謀として
- 韓王成が項羽に殺されると良は漢に帰り成信侯に封じられた。漢王が彭城で大敗した際、良は「九江王黥布・彭越・韓信の三人こそ楚を破る鍵」と献策、これにより随何が黥布を、彭越との連携が図られ、韓信が北方を平定するに至った。
- 漢王が滎陽で窮した際、酈食其の「六国の後裔を再興して味方を増やす」策に漢王が傾いていたのを、良は「借前箸」の故事で八つの理由を挙げて痛烈に批判し(湯武の故事との違い、遊説の士の離反、楚の強大化を招く懸念など)、漢王は策を撤回した。
- 韓信が斉を平定し自立を望んだ際、良は漢王を説いて韓信を正式に斉王に立てさせ、垓下決戦を前に諸侯が集まらなかった際にも良の献策で諸侯の参集を得た(詳細は他伝)。
論功行賞と留侯拝命
- 漢六年の論功行賞で、良は戦功こそなかったが「帷幄の中で籌策を巡らし千里の外で勝敗を決した」功により三万戸を望まれたが辞退し、初めて沛公と出会った留の地に因んで留侯に封じられた。
- 諸将の不満が高まり反乱を疑う声を高祖が案じた際、良は「陛下が私怨で誅した者への恐れから謀反が囁かれている、最も憎む者を先に封じて安心させよ」と進言、高祖の宿怨の相手であった雍歯を先に什方侯に封じることで諸将は安堵した。また都を洛陽とすべきとの意見に対し、良は関中の地勢の有利を説いて長安遷都を確定させた。
商山四皓と太子擁護
- 高祖が太子(後の恵帝)を廃し戚夫人の子如意を立てようとした際、呂后の兄呂沢に説得され、良は「これは口舌の争いでは覆せない」としつつ、高祖が招けなかった隠者商山四皓(園公・綺里季・夏黄公・甪里先生)を太子に招かせる策を授けた。四皓が太子に付き従う様を見た高祖は、太子の羽翼が既に固まったと悟り、廃立を断念した。良はまた黥布討伐に太子を出陣させる案にも反対し、高祖自らの出馬を促すなど、太子の地位を守り続けた。
晩年
- 良は病がちで実戦の将としては活動せず、常に謀を巡らせる役に徹した。高祖崩御後、呂后の恩に報いるため一時服薬を控えていた道術修行を中断し、六年後に薨じ文成侯と諡された。かつて黄石を授かった故事にちなみ、済北穀城山下の黄石を持ち帰って祀り、良の死後は共に葬られた。
陳平――窮乏から丞相へ
- 陳平は陽武戸牖郷の人。貧しくとも読書を好み黄老の術を修めた。兄嫁に軽んじられたが兄はこれを離縁して弟を庇った。富家の娘で五度嫁いで夫がみな死んだという張負の孫娘を娶り、家計は潤った。陳勝の乱に際し魏王咎に仕えるも用いられず項羽の下で軍功を積んだが、殷の反乱鎮圧に絡み誅殺を恐れ、印綬を項王に返上して単身漢に帰順、河を渡る船上で身ぐるみ疑われた際は裸になって疑いを解いた機知も伝わる。
- 漢に降った平は魏無知の紹介で漢王に謁見し、たちまち都尉に取り立てられ参乗・護軍の任を与えられたが、諸将は「昨日今日の亡命者を重用する」と反発した。絳侯・灌嬰らが「陳平は美男だが中身は伴わない、兄嫁と通じ、魏・楚と渡り歩いた変節漢、賄賂で待遇を変えている」と讒言すると、漢王は魏無知に問い質した。無知は「私が推挙したのは能力であって行いではない、今は楚漢の勝敗を決する才が要る、些細な私行を咎めている場合ではない」と弁じ、漢王自身も平に真意を問うと、平は「項王は一族と妻の兄弟しか信任せず、有能な士を用いない、それゆえ漢に帰した、裸一貫で来たので賜った金はすべて返上する」と答え、漢王は厚く遇して護軍中尉とし、以後諸将は異論を唱えなくなった。
- 平の反間策により、項羽は亜父范増を疑うようになり、范増は激怒して辞去する途上、背中の腫れ物が悪化して死んだ。楚軍が滎陽を包囲した際も平の策で漢王は虚偽の投降劇を演じて脱出に成功した。韓信が斉王を自称した際にも平は張良と共に漢王を諌め、韓信の懐柔に貢献した。漢六年、韓信謀反の噂が立った際、平は「陛下の兵は楚に及ばず、将も韓信に及ばない今、正面から討つのは危険、天子の巡狩を装って諸侯を集め虜にするのが得策」と進言し、これが的中して韓信は捕らえられた(詳細は韓信伝)。
- 平城の包囲で高帝が匈奴に囲まれた際も、平の秘策(単于の閼氏を通じた説得)により脱出できたが、その内容は秘され後世に伝わらなかった。以後も臧荼・陳豨・黥布討伐で奇計を用い続けた。
- 高祖が病中に樊噲の謀反を疑った際、平は周勃と共に樊噲討伐に赴くよう命じられたが、樊噲が呂后の妹婿であることを慮り、道中で「陣中で斬らず、生きたまま檻車で送る」よう計画を変更、高祖崩御の報を聞くと呂后・呂嬃の怒りを恐れて先んじて宮中に駆けつけ、哭礼を尽くして疑いを晴らし、宿衛の任を得て事なきを得た。
王陵――剛直の丞相
- 王陵は沛の人。高祖が微賎な頃、兄のように慕われた人物であったが、当初は沛公に従わず独自に兵を集めていた。母を項羽に人質に取られた際、母は密使に「陵に漢王へ忠を尽くせと伝えよ、私のことで二心を抱くな」と告げて自刎し、怒った項羽は陵の母を煮殺した。陵は漢に従い天下平定に功があり、雍歯を庇うなど旧怨を持たなかったため安国侯に封じられた。
- 恵帝崩御後、呂太后が呂氏を王に立てようとした際、右丞相であった陵は「高帝は白馬の盟で『劉氏に非ずして王となる者は天下共にこれを撃つ』と定めた、呂氏を王とするのはこの約に反する」と正面から反対し、太后の不興を買った。左丞相陳平・太尉周勃らが表向き賛成したことを陵が「約を破って阿ることに恥じないのか」と詰ると、平は「朝廷での面と向かった諫争では及ばぬが、社稷を守り劉氏を安んじる働きでは陵に劣らぬ」と応じた。太后は陵を名目上帝の太傅に祭り上げて実権を奪い、陵は怒って病と称し引きこもり、十年後に薨じた。
陳平・周勃の呂氏誅滅
- 陵の失脚後、平は右丞相に、辟陽侯審食其が左丞相となったが、審食其は実務を執らず、呂嬃のたび重なる讒言にも平は動じず、太后自身も面前で「兒婦人の言は用いるに足らぬ」と平を庇った。太后崩御後、平は周勃と謀って呂氏を誅滅し文帝を擁立、これは平が主導した謀であった。文帝は当初、両者の功を等しく評価しようとしたが、平は「高帝の代の功は勃に及ばず、呂氏誅滅の功は自分が勃に及ばない」と譲り、勃が右丞相(首位)、平が左丞相となった。
- 文帝が国事に通じるにつれ、朝廷で右丞相勃に「天下の年間訴訟件数」「銭穀の出入り」を問うと勃は答えられず冷や汗をかいたが、左丞相平は「それぞれ担当者がおり、廷尉・治粟内史に問うべき、宰相の役目は陰陽を整え四時を順わせ、外は四夷諸侯を鎮め内は百姓を親しませ、卿大夫にそれぞれの職を全うさせることにある」と答え、文帝はこれを称賛した。勃は自らの器量が平に遠く及ばぬことを悟り、まもなく病と称して丞相を辞し、平が専任の丞相となった。文帝二年、平は薨じ献侯と諡された。
周勃――質朴な将軍から丞相へ
- 周勃は沛の人。葦簾編みや葬儀の楽人を生業とする質朴な人物であったが、強弓を引く材官として頭角を現し、高祖の挙兵に従って各地を転戦、秦軍・項羽軍との数多の戦いで功を重ね、漢中入り後は将軍として三秦平定・楚漢戦争に従軍し続けた。剛毅朴訥で学問を好まなかったが、高祖はその人柄を「大事を託せる」と評した。
- 高后崩御後、呂禄・呂産が上将軍・相国として実権を握り劉氏を脅かそうとすると、勃は丞相陳平・朱虚侯章らと謀り、呂氏の兵権を奪って誅滅した(詳細は高后紀)。少帝ら三王が実は恵帝の実子でないとの疑いから、大臣らは代王(薄氏の子)を新帝に迎えることを決し、東牟侯興居らが宮中の整理に当たった。文帝は勃を右丞相とし厚く賞したが、勃は「大功を誇り高位に留まれば禍を招く」との忠告を容れて印綬を返上し封国に帰った。
- のち丞相に復帰したが、河東の郡県巡察のたびに誅殺を恐れて甲冑を着け武装するようになり、これが謀反の疑いをかけられる原因となった。逮捕・尋問の際、獄吏に賄賂を贈って娘婿の公主を証人に立てる策を授けられ、薄太后の助命により赦免されたが「かつて百万の軍を率いた身が獄吏の権威をこれほど思い知るとは」と述懐した。文帝十一年に薨じ武侯と諡された。
周亜夫――細柳の軍容
- 勃の子勝之が罪を得て国を失った後、弟の亜夫が条侯に封じられた。かつて人相見の許負に「三年後に侯となり、八年後に将相となって栄華を極めるが、その後九年で餓死する」と予言されていた。文帝が匈奴防備のため諸将の陣を巡視した際、覇上・棘門の陣は無警戒に天子を迎え入れたが、亜夫の細柳の陣は「軍中では将軍の令のみに従う、天子の詔でも通れぬ」と厳格な軍規を貫き、文帝は「これぞ真の将軍」と称賛し、崩御に際して太子に「緊急時は周亜夫にこそ兵を任せよ」と遺言した。
- 景帝三年の呉楚の乱では太尉として東征、「呉楚の鋭鋒を避け、梁に彼らを引きつけつつ糧道を絶つ」策を用いた。梁王からの度重なる救援要請にも動かず、間道からの奇襲を警戒して洛陽へ迂回する策も取り、糧を絶たれ飢えた呉楚軍を撃破して乱を平定した(詳細は荆燕呉伝)。この一件で梁孝王との間に確執が生じ、後に太后への讒言の一因となった。
- 丞相となった亜夫は、景帝の栗太子廃立に反対し、外戚王信の封侯にも「高帝の非劉氏不王・無功不侯の約」を盾に反対するなど剛直な姿勢を貫き、次第に景帝に疎まれた。匈奴からの降将徐盧らの封侯にも「主に背いた者を賞すれば臣下の節操を損なう」と反対したが用いられず、病と称して丞相を辞した。
- 宮中に召された際、あえて箸を置かない食膳を出され、不満げに席の者へ箸を求めた態度を景帝に咎められて謝罪したが、退出する背に景帝は「これは若き主に仕える臣ではない」と漏らした。まもなく子が父の葬送用に購入した甲楯が官の禁制品であったとして謀反の嫌疑をかけられ、廷尉の「地上で反せずとも地下で反する気か」との詰問にも屈せず抗弁したが、獄中で五日絶食した末に血を吐いて死んだ。国は一時絶えたが景帝はのちに勃の他の子堅を平曲侯に封じ、また平帝の代に勃の玄孫の子恭が絳侯に再封された。
史論
- 賛にいう。張良は容貌婦人のごとくと伝わるが智勇兼備であった、孔子の「貌で人を判じて子羽を見誤った」との戒めのとおり、外見に惑わされてはならない。黄石公の授書のような逸話は多くの学者が鬼神を疑うが、高祖が幾度も危機を脱した背景に良の力があったのは天意によるものであろう。陳平の志は若き日の社の肉を分ける逸話に既に見え、楚魏の間を転々としながら最後は漢の謀臣として大成した。呂后の代の艱難も智によって乗り切り、王陵は正面から諫争して自ら身を引くという、それぞれの志の違いが際立つ。周勃は質朴な庶民から身を起こし、社稷を輔佐して国難を除き文帝を立てるという漢の伊尹・周公にも比すべき功を成した。高祖がかつて「陳平は智に余りあり、王陵はやや愚直だがこれを補佐できよう、劉氏を安んじる者は必ず勃であろう」と予言したとおりとなったのは、まさに聖なる先見であった。
(以上、巻末の「前漢書卷四十考證」は四庫館臣による校勘記のため訳出対象外とする。)