挙兵から反乱まで
- 英布は六の人。若い頃、人相見に「刑を受けた後に王となる」と予言され、成長して法に触れ黥刑(顔への入れ墨)を受けると、かえって喜んで笑ったという。驪山の労役で豪傑と交わり、徒党を率いて江中で盗賊となった。陳勝の挙兵に呼応して番君(呉芮)に身を寄せ、その娘を娶り、章邯が陳勝を破ると北上して秦軍を撃退、項梁の下に入り常に諸軍中の先鋒として戦功を重ねた。
- 項梁の敗死後は懐王・項羽に従い、鉅鹿の戦いでは項羽の命で先に渡河して秦軍を破り、新安での秦降卒二十万の生き埋めにも加わった。関中入りでは前鋒を務め、項羽の分封で九江王に封じられ六に都した。項羽が義帝を追放すると、密命を受けた布は追撃してこれを郴で殺害した。
- 斉・趙で反乱が起きると項羽は九江に援軍を求めたが布は病と称して数千の兵しか送らず、彭城の戦いでも助力しなかったため項羽の怨みを買った。漢王は謁者随何を使者として遣わし、布に漢への寝返りを説かせた。随何は「大王は名目上楚に属しながら実際には楚のために動かず、託身するに値しない」と説き、布は密かに漢への内応を決意。折しも来ていた楚の使者を随何が「九江王はすでに漢に帰した」と暴露して事を既成とし、布は挙兵して楚を攻めた。
- 楚が反撃し布の妻子を殺すと、布は間道を通って随何とともに漢に帰した。当初、漢王の傲慢な態度に怒って自殺を考えたが、王と同等の待遇を用意されると喜んで従い、以後漢軍として楚と戦い垓下で楚を滅ぼした。功により淮南王に封じられたが、随何の功を軽んじる高祖に対し随何自身が反論し、高祖は随何を護軍中尉に取り立てた。
黥布の反乱と最期
- 十一年、韓信・彭越が相次いで誅殺されると、布は身の危険を感じ密かに兵を集めた。寵姫の医者通いを通じて中大夫賁赫と縁ができ、賁赫が姫を接待した噂を聞いた布が疑って捕らえようとすると、賁赫は逃れて謀反を上変(密告)した。蕭何は「布に謀反の理由はない、私怨による誣告の疑いがある」と慎重論を唱えたが、布は既に発覚を悟り実際に挙兵した。
- 汝陰侯滕公の客薛公は「彭越・韓信と同功一体の身である以上、自らにも禍が及ぶと疑い反したのは当然」と分析し、上計(山東を制圧する策)・中計・下計のうち布は「東を取り西を捨てる」下計を選ぶだろうと予言、実際そのとおりとなった。布は緒戦で楚の劉賈を破るなど勢いを見せたが、高祖自ら親征し戦況は膠着、最終的に淮水を渡って敗走、長沙哀王の偽りの誘いに乗って番陽で殺された。