漢書卷三十四 韓彭英盧吳傳第四 彭越

彭越、字は仲、昌邑の人。鉅野の沢で盗賊の頭領から身を起こし、漢の遊撃隊として楚の糧道を絶つ功を挙げて梁王に封じられた。陳豨の乱への加担を疑われて捕らえられ蜀へ流罪となり、護送中に呂后の策で再告発され一族とともに誅殺された。

年表(3件)
  • 漢二年魏豹らと東進し漢に帰属、魏相国として梁地平定にあたる
  • 漢十年陳豨の乱で出兵を拒み、謀反の疑いで捕らえられ蜀へ流罪となる
  • 漢十年護送中に呂后により再告発され、一族とともに誅殺される

挙兵から梁王へ

  • 彭越、字は仲、昌邑の人。鉅野の沢で漁をしながら盗みも働いていた。陳勝の挙兵時「両龍(秦と陳勝)の争いを待とう」と静観していたが、澤の若者百余人に推されて頭領となった。約束の刻限に遅れた者を一人斬って威を示し、以後衆は畏れて従った。
  • 沛公の昌邑攻めを助けたが落城せず、彭越は鉅野に留まり魏の残兵を収めて一万余の勢力を築いた。斉王田栄の反乱に呼応して漢から将軍印を受け楚を攻撃、漢二年には魏豹らとともに東進し漢に帰属、漢王は彭越を魏相国として梁地の平定に当たらせた。
  • 彭越はその後も漢の遊撃隊として楚の糧道を絶ち続け、雎陽・外黄など十七城を攻略するなど活躍したが、項羽が反撃すると一時奪われた城も多かった。漢が固陵で項羽に敗れた際、張良の献策で「雎陽以北から穀城までを彭越に与える」と約すると、彭越は兵を挙げて垓下決戦に参加し、梁王に封じられ定陶に都した。
  • 漢十年、陳豨の反乱に際し彭越は病と称して出兵せず、部将扈輒の「今から挙兵に転じるべき」との進言を退けたが、部下の密告により謀反の疑いで捕らえられ雒陽に幽閉、庶人に落とされ蜀への流罪となった。護送の途中、呂后に無実を訴えて赦しを願ったが、呂后は「猛将を生かしておけば後患となる」として密かに謀反の再告発をさせ、彭越とその一族は誅殺された。