漢書卷三十四 韓彭英盧吳傳第四 韓信
韓信、淮陰の人。貧窮の中から蕭何に見出されて漢の大将軍となり、魏・代・趙・斉を平定して斉王に立ち、垓下で項羽を滅ぼした漢建国の立役者。功高きゆえに疑われ楚王から淮陰侯に落とされ、のち陳豨の乱への内通を疑われ呂后に長楽宮で斬られた。「狡兎死して良狗烹らる」の故事で知られる。
若年から拝将まで
- 韓信は淮陰の人。家貧しく善行の推挙も得られず、商売の才もなく、人に寄食する日々であった。母の葬儀の地を選ぶにも「傍らに万戸を置けるほどの高台」を望むなど大志を抱いていた。下郷南昌の亭長の家に食客として通ったが、亭長の妻に疎まれ食事を出されなくなると自ら去った。城下で釣りをしていた際、哀れんだ漂母に幾十日も食を恵まれ、「必ず厚く報いる」と告げると漂母は「大丈夫が自ら食えぬのを哀れんで飯を与えたまで、報いなど望まぬ」と怒った。淮陰の若者に「刀を帯びていても臆病者」と侮られ、衆人の前で股をくぐらされる恥辱も受けた。
- 項梁の挙兵に従うも無名のまま、項羽の下で郎中となり幾度も献策したが用いられなかった。漢王の蜀入りに際し楚を離れて漢に帰したが、法に触れ斬刑に処されかけたところ、滕公(夏侯嬰)に「上は天下を取る気がないのか、なぜ壮士を斬るのか」と訴えて助命され、蕭何に才を認められた。南鄭への道中、多くの将が脱走する中、韓信も自分が用いられないと見て出奔したが、蕭何は自ら追いかけて連れ戻した(「蕭何、月下に韓信を追う」の故事)。
- 蕭何は漢王に「天下を争うなら韓信のような国士無双の人材がなくては叶わない」と説き、漢王は大将に任じるよう促され、儀式を整えて韓信を大将軍に拝した。韓信は漢王に、項羽の人物評として「匹夫の勇(怒声で人を威圧するのみ)」「婦人の仁(功に報いる印を渋る)」の両面から項羽の限界を指摘し、関中三秦への進撃・東征策を説き、漢王は大いに喜んで信の献策どおり進軍することとした。
魏・代・趙の平定
- 漢王は陳倉から出て三秦を平定、二年には関を出て魏・河南・韓・殷の諸王を降した。彭城の敗戦後、魏王豹が漢に叛くと、韓信は疑兵で正面の蒲坂を牽制しつつ夏陽から木罌缶で密かに渡河し安邑を急襲、豹を虜として河東を平定した。続いて代を破って夏説を捕らえ、趙攻めでは井陘の狭路を利用した奇策を用いた。
- 趙の広武君李左車は成安君陳余に「漢軍の糧道を断てば韓信を破れる」と献策したが、儒者である陳余は詐謀を用いず正面から迎え撃つことを選んだ。韓信は間者を通じてこれを知り安心して進軍、夜半に二千の軽騎を山陰に伏せ「趙が空壁して追撃する隙に趙の旗を漢の赤旗に立て替えよ」と命じた。自らは万人を背水の陣に置き、趙軍を挑発。趙が全軍で追撃し空になった砦に伏兵が漢旗を立てると、趙軍は動揺して総崩れとなり、成安君陳余は泜水で斬られ趙王歇も虜となった(背水の陣の故事)。
- 韓信は広武君李左車を師として迎え、燕・斉攻略の計を問うと、李左車は「疲弊した兵での遠征は危険、まず燕に使者を送り服させ、その勢いで斉を臨めば戦わずして事は成る」と説き、韓信はこれに従って燕を服させた。
斉の平定と韓信の斉王擁立
- 漢王は成臯で楚に急襲され、単身張耳・韓信の陣に入って印綬を奪い両人を交代させた。信は相国として趙の未発の兵で斉を撃つよう命じられ、酈食其の説得で斉が既に漢に降ったと聞いても、蒯通の勧めで進撃を続け歴下の斉軍を破り臨菑を落とした。斉王広は酈食其を裏切り者として煮殺し逃走、楚は龍且に二十万と称する軍を送って救援させたが、韓信は濰水の上流を土嚢で堰き止め、半渡した龍且軍を堰を切って撃破、龍且を討ち斉を平定した。
- 韓信は漢王に「斉は反覆常なき国、仮の王を立てて鎮めたい」と使者を送ったが、漢王は激怒しかけたところを張良・陳平に「今は信の自立を止められない、いっそ王に立てて味方にすべき」と諭され、「真の王になれ、仮とは何事か」と改めて張良を遣わし斉王に立てた。項羽は武渉を送り韓信に三分天下を説いたが、信は「漢王の厚遇に報いる」として拒絶、蒯通も同様の説得を試みたが信は聞き入れなかった(詳細は他伝)。
垓下の戦いと韓信の最期
- 漢王は張良の計で信を垓下に集結させ、項羽を滅ぼした。高祖は直ちに信の軍を接収し楚王に移し下邳に都させた。信は帰国後、かつて食を恵んだ漂母に千金を、下郷の亭長には小恩への戒めとして百銭のみを与え、辱めを受けさせた若者は許して中尉に取り立てた。項羽の旧将鍾離眜が信のもとに逃げ込んでいたことが発覚すると、高祖は偽って雲夢に巡遊すると称し信を油断させ捕らえようとした。信は鍾離眜を斬ってその首を献じて弁明しようとしたが、鍾離眜は「お前もまた長者ではない」と罵って自刎し、信は捕らえられ淮陰侯に落とされた。
- 信は「狡兎死して良狗烹らる」の言葉どおりの境遇を嘆き、以後は病と称して朝見を避け、樊噲らと同列に置かれることを恥じた。高祖に「私なら何万の兵を率いられるか」と問われ「陛下は十万まで、私は多々益弁ず(多いほど良い)」と答え、「では何故お前は私に捕らえられたのか」と問われると「陛下は兵を率いる才はないが、将を率いる才がある、これは天授であって人力ではない」と応じた逸話が残る。
- 陳豨が代の相として辺境に赴く際、信は密かに「お前の任地は精兵の地、内応して兵を挙げれば天下を図れる」と唆した。漢十年、陳豨が反すると、信は病と称して従軍せず、密かに家臣と謀り官奴を赦して呂后・太子を襲う計画を立てたが、舎人の密告で露見。呂后は蕭何と謀り、陳豨討伐の勝報と偽って信を呼び出し、長楽宮の鐘室で斬った。信は死に際「蒯通の計を用いず、女子の手にかかるとは、これも天命か」と嘆いたという。三族は誅せられた。高祖は信の死を聞き、蒯通を捕らえたが、その弁明を容れて赦した(詳細は他伝)。