漢書卷三十三 魏豹田儋韓王信傳第三 韓王信

韓王信、旧韓襄王の庶孫、身の丈八尺五寸。楚漢の争いの中で漢に帰し韓王に立てられたが、匈奴に近い太原に移されたことを機に離反、匈奴に降って漢の辺境を侵し続けた末に参合で敗死した。子の頹当・嬰は後に漢に降り列侯となった。

年表(4件)
  • 五年潁川に封じられる
  • 六年太原郡に移封され晋陽に都する
  • 六年匈奴に包囲され、疑われたことから馬邑を挙げて匈奴に降伏する
  • 孝文帝の代子の頹当・嬰が部衆を率いて漢に降り、頹当は弓高侯、嬰は襄城侯となる

挙兵から匈奴投降まで

  • 韓王信は旧韓襄王の庶孫で、身の丈八尺五寸。項梁が楚懐王を立てた際、韓のみ王が立っていなかったため公子成を韓王としたが、成は敗死し、沛公配下の張良が韓の地を平定して韓信を将とした。項籍に強いられ従わざるを得なかった信は、漢王が漢中に移されると「項王は諸将を王とするのに漢王だけを僻地に置いた、士卒の望郷の念が強いうちに東進すべき」と説き、漢王は関中を平定すると信を韓太尉とした。
  • 項羽が旧韓王成を殺し鄭昌を韓王に立てて漢に抗させたが、漢二年、韓信はこれを降し漢の韓王となった。楚に降り再び漢に帰るなど転戦の末、五年に潁川に封じられ、六年には北方の守りのため太原郡に移封され晋陽に都した。信は「国境が匈奴に近く晋陽は塞から遠い、馬邑に治所を移したい」と願い出て許された。
  • その秋、匈奴の冒頓単于が大挙して信を包囲、信は和平交渉を重ねたが、漢は二心を疑い書で責めた。信は誅殺を恐れて匈奴と結び馬邑を挙げて降伏、太原を攻めた。高祖自ら討伐に赴き銅鞮で信の軍を破ったが、信は匈奴に逃れ、趙の後裔趙利を王に立てるなど画策を続けた。冒頓は白登山で高祖を包囲したが、閼氏(単于の妻)の説得と霧に紛れた奇策で高祖は脱出した(詳細は他伝)。

韓王信の最期とその子孫

  • 信はその後も匈奴軍とともに漢の辺境を侵し、柴将軍の書状に対し「三つの罪を犯した身が生を求めるのは伍子胥のように世に恥じることになる」と述べて拒み、参合で敗死した。信が匈奴に入る際に生まれた子頹当、太子の子嬰は、孝文帝の代に部衆を率いて漢に降り、頹当は弓高侯、嬰は襄城侯となった。
  • 頹当の孫韓嫣は武帝の寵臣として知られ、弟の韓説は校尉として匈奴を討ち龍額侯に封じられ、のち按道侯として東越を破る功を立てたが酎金の罪で失侯、太初中に光禄勲として復帰するも巫蠱の変で太子に殺された。子の韓興も巫蠱で誅されたが、忠誠が惜しまれ弟の韓増が龍額侯に復封され、昭帝・宣帝期に大司馬車騎将軍まで昇り温厚な人柄で知られた。

史論

  • 賛にいう。周王室の衰退とともに諸侯は次第に絶えたが、炎帝・黄帝・唐堯・虞舜の末裔はなお残っていた。しかし秦の六国併呑によって上古の遺烈も地を払うように消え去った。楚漢の際、豪傑が相争って王を称した中で、魏豹・韓(王)信・田儋兄弟だけが旧国の後裔であったが、いずれも本人一代で絶え、田横のような志節ある賓客ですら自立できなかったのは、天命というほかない。韓氏だけが弓高侯以来富貴を保ったのは、その先祖が周の宗族に近い血筋であったからだという。

(以上、巻末の「前漢書卷三十三考證」は四庫館臣による校勘記のため訳出対象外とする。)