斉の興亡
- 田儋は狄の人で旧斉王田氏の一族。従弟の田栄・田横とともに豪傑として名望があった。陳勝配下の周市が北進すると、田儋は奴隷を斬るふりをして狄令を殺し、みずから斉王を称して周市を撃退、斉の地を平定した。
- 章邯が魏王咎を臨済で囲むと、田儋は救援に赴くが夜襲を受けて戦死した。従弟の田栄は残兵を率いて東阿に走り、斉人は田假を新たな斉王に立てたが、田栄はこれを怒って撃退し田儋の子田市を王に立て、自らはその相となり田横を将とした。
- 楚の懐王・趙が田假・田角・田閒(斉の旧臣で他国に逃れていた)を殺すよう求めたが、田栄は拒否して援軍を送らず、これが後の項羽との対立の種となった。項梁の敗死後、項羽は諸侯を分封する際、田市を膠東王に落とし田都を斉王、田安を済北王とするなど田栄を冷遇し、田栄は激怒して田都・田安・田市を次々に討ち、三斉の地を併合して自立した。
- 項羽は激怒して斉を攻め、城郭を焼き払い民を虐殺、田栄は敗走の末に平原の民に殺された。弟の田横が残兵を集めて抗戦を続けたが、漢が彭城を破ると項羽は斉から手を引き、田横は田栄の子広を王に立てて実権を握った。漢の韓信が斉に迫ると、田横は酈食其の講和交渉に応じて油断していたところを韓信の奇襲で破られ、酈食其を煮殺した恨みから広は逃走の末殺され、田横は自立して王を称するも漢軍に敗れ、彭越を頼って梁に逃れた。
田横の最期
- 漢が天下を統一すると、田横は誅殺を恐れて五百余人の徒党とともに海中の島に隠れた。高帝は田横兄弟が斉の人望を集めていることを案じ、赦免して召したが、田横は「酈食其を煮殺した身で、その弟酈商が漢の将となっている今、恐れ多くて出仕できない」と固辞し庶人として島に留まることを願った。高帝は衛尉酈商に田横の安全を保証させた上で改めて召し、田横は二人の客とともに洛陽へ向かった。
- 尸郷に至った田横は「人臣として天子に見えるには身を清めるべき」と使者に告げ、客に「私はかつて漢王と並んで王を称した身、今さら降虜として北面するのは恥、しかも人の兄を殺しながらその弟と肩を並べて仕えるのは忍びない、陛下が私を召すのはただ顔を見たいだけのこと」と語り、自刎した。高帝はその首級を見て涙し二客を都尉に取り立て王者の礼で葬らせたが、二客は墓の傍らで自刎し、海中に残る五百人もその死を知るとみな自殺した。